「よくおいでくださいました」。主人が出迎えてくれた店頭には不思議なのれんが掛かっている。黒地に白い筆で「布施酒造」と書かれたのれん。手前にあるのれんは、今は亡き先代が80代のときに書いたものだという。先代は習字を教えていた。叱られたとき「だったらお父ちゃん書いてよ」と言うと、達筆だった。なぜだろう。奥には布施酒造が代々掛けてきたのれんが二枚あるが、いちばん新しいのれんのほうが、筆の滑りが良く先代の思いがより強く感じられるのだ。

「何でも年を経たものがいい」、主人は力をこめてそう言った。戦時中、父は陸軍大尉だったが戦争が終わるとその役目は終わった。酒がよく売れる時代になり、父と母は全国民に酒を均等に配当したいと願い一から酒造りを始め、懸命に頑張った。その後ろ姿を、子どもたちはしっかりと見て親の生き様を学んだ。

先代の生き様は、筆で書いた文字にも現れている。七尾ののれんは「花嫁のれん」だけではない。その言葉自体、のれん展が始まってから生まれたものであることを忘れてはならない。のれんは、お客さんを迎え伝統を受け継いでいくために大切なものなのだ。のれんを巡る旅はこれからも続いていく。

三年、五年、七年…。熟成された日本酒は、年月が経つにつれてコクが出る。透明な琥珀色の見た目からは想像できないほど。飲んだ後は、あたたかな余韻で体が満たされていく。明治9年から守られた味だ。一合酒を飲んだら、一合水を飲む。これも布施酒造がずっとお客さんにお願いしてきたことのひとつだ。

一本杉通りの角を曲がった通りにたたずむ布施酒造には、かつてたくさんの蔵人や女中がいた。奥に進むにつれて、明治から令和への酒造の歴史を辿っているかのような感覚になる。酒を熟成させるための20のタンクがある。これも熟成する期間ごとに色分けしている。奥の蔵に入れたのは蔵人だけ。酒は+5℃のときがもっとも作りやすい。蔵を締めると、外気が何度であっても蔵内は+5℃になるそうだ。酒は鉄を嫌う。だから酒造は木造なのだ。

酒のために建物全体が丁寧に作られている。奥の蔵の階段を上がったところには麹室があり、そこで40日ほど蒸した麹は酒のもととして階下へ運ばれてくる。それをタンクに入れて一か月ほど経つと酒ができる。そこから50日、酒を発酵させた後、酒袋(かすぶくろ)に入った新酒を酒槽(ふね)に入れて一昼夜待つ。力板(りきばん)をかけて、垂口(たれくち)からじょろじょろと酒をしぼり出す。この時点で、あっさりとした風味の濁り酒ができるが、布施酒造では、ここからさらに熟成を重ね、芳醇な味わいの古酒を造り上げる。

昔、そこに真っ赤な目をした白いヘビが出た。このヘビが布施酒造を守ってくれていると先祖代々信じている。そのために、蔵の内装は改装してはいけない。100年近く変わらない姿をとどめている。熟成された年月によるお酒の違いを味わっていたとき、瓶に貼られたラベルに気づいた。頑固そうな男性の顔。謎めいた絵だ。東京芸大で大学院まで進み、銀座で画廊を開いていた主人の兄、つまりは先代の長男である画家が描いたそうだ。絵の男性は描いたご本人だ。

現在の主人は画家の弟であり先代の次男である、現在86歳の五代目だ。品の良い物腰が印象に残る方で、ずっと立って説明するのは辛いはずなのに、お客さんには苦労の片鱗も見せない。これまで布施酒造を継いできた先祖たちも貫いてきた姿勢なのだろう。先代の次女と三男も店内にいて、お酒を造ったりお客さんに説明しながら売ったりしていた。ふだんは三人で営んでいるが、毎年冬休みには、彼らの子どもや孫が酒造りを手伝いに来る。昔からのお酒の製造方法を守り続けているのだ。

タンクのある室の前に、お酒を絞る機械「酒槽」があった。似ている。一本杉通りの、鳥居醤油店の醤油絞り機、槽(ふね)と。人の手で受け継がれてきたものには、やはり共通点があるのだろうか。外に出て晴れた空を見ると、主人は「皆さんの日ごろの行いがいいと見えて、素晴らしい天気ですね」と言った。

その後、写真撮影のために主人が歴史ある店舗の中に立つと、貫禄を感じた。やさしさと威厳を共存させたその姿こそが、七尾で長く店を守り、ものを作ってきた人の姿なのだ。私は思わず目を見張った。

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