大正のはじめ、旧古河鉱業若松ビルが建てられた頃のことである。
ビルのすぐ近くにある他の料亭では、毎年、年末になると、お客様たちがはっぴを着て赤穂浪士に扮した。宴のクライマックスは、もちろん赤穂浪士たちが主君の無念を晴らすため吉良上野介を斬る名場面ではふんだんに小麦粉を周囲に巻き、吉良を斬る演技をした。
もちろん客間は真っ白になる。宴が終わると、夜中に畳屋が着て畳をすべて張り替え、翌朝になると何もなかったように客間はきれいになっていた。そうして料亭は新年を迎える。
若松の芸者は美貌だけではなく、秀でた芸を体得していた。石炭景気が沸いていた頃、若松にある多くの料亭は、京都から一流の踊りや唄、お茶の師匠を呼び、芸者になる女性たちに習わせた。いい芸者には作法が必須だと料亭の経営者たちは考えていたのだ。
元号が昭和に変わり、戦前になっても若松には芸者が約160人いたと言われている。やがて戦後、高度成長期が終わると、若松の繁栄の証でもあった料亭の多くはなくなった。
しかし有形文化財になり今も存在している料亭もある。料亭金鍋がそうだ。芸者はいなくなっても、味わい深い和食を今も客に提供し続けている。