かつて善光寺参りをした人は、一晩は必ず本堂に泊まって「おこもり」をした。おこもりでは、まず人々が4,5人に分かれて一枚の布団にくるまる。そこにお坊さんがやってきて、仏の前でお勤めをはじめる。それにあわせて、人々も念仏を唱えるのがならわしだった。
常夜灯のゆらめく薄暗い堂内で、眠らずに声を揃えて念仏を唱え続ける。それは、仏様を信じる者にとって深いよろこびを感じる体験だっただろう。その陶酔感の中で、ある人は死に別れた人と再会した。またある人は目の前に阿弥陀様が現れ、罪を許してもらえた。心に抱えていた苦しみが、癒されるような瞬間が訪れた。
善光寺は、宗派の異なる二つのお寺が運営している。そんなお寺は、実はここだけだという。なぜ善光寺だけが特別なのだろうか。
それは、「宗派」が生まれるよりもずっと前から存在していたお寺だから。本堂に安置されている本尊は、仏教伝来とともに百済から天皇に贈られた仏像だと伝わる。じつに、およそ1500年前のことだ。これが確かなら、善光寺の本尊は日本最古の仏像ということになる。
本尊は「絶対秘仏」と言われ、誰であってもその姿を拝むことはできない。しかし本尊を納めている厨子には、何かが入っているたしかな重さがあるという。さらに、聖徳太子が父親を亡くした時、阿弥陀様に書いた手紙をこの秘仏の前に供えたという話も伝わっている。それだけの由緒があるからこそ、善光寺は宗派に囚われない存在でいられた。そして歴史を積み重ねる中で、性別も身分も問わず、悲しみに打ちのめされた人、評判を聞いた楽しい旅行気分の人、すべてを受け入れる寺になっていった。
訪れる人の属性や、理由はさまざまだ。しかし、誰もが同じ道を通って善光寺へ向かう。それはあなたが通ってきた、たくさんの物語が残る道だ。「遠くとも一度は参れ善光寺」。その参道で、あなたはどんな物語を残しただろうか。