「J、O、A、K、こちらはNHK東京テレビジョンであります。」 

白黒の画面にアナウンサーの第一声が流れる。当時わずか866軒しかいなかった受信者たちは、驚きの歓声を上げてブラウン管の向こう側に拍手を送った。

1953年2月1日、NHKによる日本初のテレビ放送がはじまった。そして、その半年後には「日本テレビ」が放送開始。同年に発売となった国産第1号のテレビはシャープ製で、初任給2年分という「高値の花」だった。しかし、街頭テレビによってその魅力は知れ渡り、急速に一般家庭に普及していく。その間にも1955年に「TBS」が、来たる1958年には「フジテレビ」や「テレビ朝日」による放送がはじまろうとしていた。

そのとき、東京の空には3本の電波塔が立ち並んでいた。NHK、日本テレビ、TBS、それぞれの電波塔だ。今後も新しいテレビ局が生まれるたびに電波塔を建て続けると、ますます空が窮屈になってしまう。問題は景観だけではない。電波塔が複数あることで、受信者はチャンネルを変えるたびに、アンテナをそれぞれの電波塔がある方向に向けなければならないという不便さもあった。

「だったら、電波塔をひとつにまとめよう。」

言うのは簡単だった。しかし実際に計算をしてみると、関東一帯に電波を届けるためには300m以上の高さが必要だった。金がない。土地がない。技術がない。「それでも」と言って動き出した男がいた。生まれは農家でありながら、新聞配達のアルバイトから産経新聞を立ち上げるに至ったメディア王「前田久吉」だった。

「どうせ造るのなら世界一を。エッフェル塔(当時312m)をしのぐものでなければ意味がない。」

東京タワーは国が造ったものではない。「日本電波塔株式会社」というイチ企業が建てたもの。設立者となった前田のその決意から、世界一の大仕事がはじまったのだ。

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