あなたはこれから八丈島の「沢の小径」に足を踏み入れます。観光名所ではありません。島の人もほとんど知らない秘密の森です。

森には「フィトンチッド」があると言われています。フィトンチッドとは人間にとってリラックス効果があるといわれる森の香り成分です。これが何なのかといえば、森の植物たちには根っこがあります。その場から動くことができないので敵に襲われたときに逃げられません。その対策こそがこの香り。香りで有害な微生物や昆虫を撃退しているのです。でも、不思議なことに人間にとってはリラックス効果があります。ということは、もしかすると森は人間がはいることを歓迎してくれているのかもしれません。

さて、駐車場からスタート地点まで10分ほど歩きます。その間に「2つの視点」をあなた自身にインストールしてみましょう。2つだけです。それは「しゃがんで見る」と「目を閉じてみる」です。

まず、「しゃがんで見る」とはどういうことか。この森でしゃがんでみると香りの変化に気がつくはずです。「植物のにおいが濃くなった」そう感じたら、視点を下げたまま、小さな植物のひとつずつに目を止めてください。かわいいもの、美しいもの、なんだか気持ち悪いもの。植物の名前を知らなくても感じることがあるはずです。

気になるものを見つけたら、1分間、じっと眺め続けてみてください。1分間ものあいだ、同じものを見ることは日常生活ではほとんどありません。でも、森の中で試してみると、最初は見えていなかった葉っぱの形や静脈の流れ、風にゆられる動きなど、いろいろなことが見えてきます。しゃがんで下ばかり見ていると思ったら、ときに空を見上げてください。背の高い植物越しに見る空はどのように見えるでしょうか。

もうひとつ。「目を閉じてみる」とはどういうことか。目をこらすだけでなく、それ以外の感覚を研ぎ澄ませてみましょう。静けさの奥にある風の音や渓流の音に耳を澄ませたり、においの変化や湿度の違いを感じたり。そのまま、目を閉じたまま瞑想してみましょう。瞑想とは、単に心を無にすることではありません。自分の内面に向かって深く静かに思いをめぐらせることでもあります。

たとえば、ひとつ問題提起をしたいと思います。あなたは「光合成」をご存知でしょうか。理科の授業で最初に習う、あの光合成です。植物は太陽の光を浴びてエネルギーを蓄えます。そのエネルギーが結実した実を、植物は鳥などの動物に食べさせる。動物たちはその実を食べて中にある種をばらまきます。これはお互いの種の保存のために貢献しあっているといえます。このように自然界ではいろいろな形で種の保存のための助け合いがおこなわれています。では、人間はどうなのでしょう。あなたは、そのサイクルの一部として機能しているでしょうか?

目を閉じたまま、そのことに思いをめぐらせてみてください。思いがうまく流れていかないときは、裸足になってみてください。この森を歩きはじめると緑のコケの絨毯を踏みしてめている自分に気がつくはずです。靴越しに見ても気持ちよさそうなふかふかの絨毯。思い切って裸足になり、森とダイレクトにつながってみましょう。そして、その場で深呼吸してみてください。靴という鎧を脱いでこの森と一体になったときに何を感じるか。その感触を持ち帰ってほしいと思うのです。

さて、この音声を駐車場から聞きはじめたとすれば、スタート地点はもうすぐです。最後に、八丈島の島の成り立ちをご紹介したいと思います。

地球が誕生したのは46億年前。一方で、八丈島が生まれたのはほんの10万年前。八丈島は太平洋で火山が噴火して生まれた新しい島で、本土と地続きになったことがありません。ということは、この島にいる植物や虫たちはぜんぶ海を渡ってやってきたことになります。あなたもそのひとりです。海を渡り小さな島で生き延びた生命は特別な進化をして今日その姿を私たちに見せています。

八丈島は火山の島ですが、ふたつの火山がくっついています。およそ10万年前に生まれたのが、今あなたがいる三原山。そして、新たに約1万年前に生まれたのが八丈富士です。ふたつの火山は違う性質の山で、新しい八丈富士には川がありません。まだ森が少なくて水を蓄えることができない若い山です。対して、あなたが歩いている三原山は古い山。森がきちんと形成されているのでたくさんの水分を蓄えることができます。

この三原山もはじめは溶岩しかないむき出しの大地であったことでしょう。でも、この島には雨がたくさん降りますので次第に小さなコケが生えてきます。コケは太陽と水さえあれば土がなくても育ちます。コケが生えてコケが水が蓄えるようになると、風に乗って飛んできたシダの胞子や鳥に運ばれた種子が芽生えるようになる。シダが育つようになるとそれらが分解されて土がつくようになり、木々が育つようになり、虫が住めるようになり、と、生命がつながっていく。そして、最後にシイノキのような大木が育つようになる。そのシイノキもまた朽ちてキノコに分解されて土に還っていく。

あなたは今、そんな森を歩いています。果てしない時の流れに足を踏み入れ、その一瞬を見に行くのです。さて、この音声はここで終わりです。イヤホンを外したら、まずは耳をすませてみてください。きっと、鳥たちの声が聞こえます。1種類ではないはずです。何種類の鳥の鳴き声を聞き分けられるでしょうか? 秘密の森、沢の小径のはじまりです。

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