時は戦国時代。鷹狩りに訪れた武将が、近くの寺で休憩をとることにしました。夏のとても暑い日だったため、武将はびっしょりと汗をかいていました。その様子を見ていたのが、寺の小姓。

一杯目は大きな器にぬるめのお茶を入れ、武将に差し出します。とても喉が渇いていたため、武将はお茶をごくごくと一気に飲み干しました。「もう1杯」と頼まれると、小姓は湯の量を少なくし、先ほどより少し温かいお茶を出しました。さらに3杯目を頼まれると、次は小さな器に熱いお茶を入れて出しました。この気配りに武将は大変感心し、家臣として招き入れたのだとか。

この武将こそ、かの有名な豊臣秀吉。そして気の利く小姓が、家臣となった石田三成です。この「三献(さんこん)の茶」と呼ばれる話は、三成の忠義心、生真面目さがとてもよく表れています。

ここ壽聖院は、石田三成が父・正継公の菩提寺として創建した寺院ですが、庭園にある池も秀吉軍の馬印であった瓢箪をモチーフにして造られています。それほどまでに忠義をつくした三成は、秀吉の死後も豊臣家を守ろうと奮闘しますが、関ヶ原の戦いにおいて徳川家康に敗北。失意の中、亡くなります。

敗軍の将となってしまい、命を落とした三成。石田家の象徴ともいえる壽聖院の建物は全て取り壊され、やがて境内は4分の1まで縮小されてしまいました。しかし、どのようにして廃寺を免れたのでしょうか。

このような物語が残されています。
━━佐和山城から逃れた、三成の長男・重家が助けを求めたのは、壽聖院の初代住職であった。住職は、重家をその日のうちに自身の弟子にし、「命を助けてやってほしい」という嘆願の手紙を家康に送ったという。住職によって命を繋いだ重家は、後に壽聖院・三世住職となり、現在の本堂を再建することになる。廃寺の危機にあった壽聖院を守り、存続の道を開いたのである━━

初代住職への恩義に報い、石田家が存在した証を残す。そのような想いもあったのかもしれません。
「三献(さんこん)の茶」に表されるように、忠義深い三成。その忠義の心が脈々と受け継がれてきたからこそ、壽聖院は今日まで続いているのでしょう。

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