貞俶 御花の歴史は家としてはじまった

今では柳川の観光名物となっている川下り。なんと、お堀の長さは柳川市全体で930キロにも及ぶ。

この川下りが観光で親しまれるようになったのは、ごく最近だ。江戸時代、お堀は生活用水としてだけでなく、城を守る機能も担っていた。城の周りのお堀に安易に入ろうものなら「くせ者!」と警備が飛んできただろう。

城の周りのお堀を移動手段として気軽に使えたのは、柳川藩主だけ。立花家の人たちは、御花の裏手に残る船着場から舟に乗っていた。

この場所にはじめて屋敷を建てたのは、江戸時代中期の5代藩主・立花貞俶だ。女性に優しく魅力的な人物だった貞俶には、とても多くの側室がいた。それまで生活していた柳川城では手狭になったため、貞俶は側室とその子どもたちが生活する住まいを作った。御花の歴史は「家」としてはじまったのだ。

側室や子どもが多ければ権力争いがつきものだが、立花家の記録を見る限り、大きな争いや反乱は起きていない。江戸時代は、お家騒動で目立ちすぎれば幕府から目をつけられ、処分されてしまうこともあった。家が長く続いていることが、立花家が円満だったことの証拠にもなっている。

柳川城の南西にあるこの場所には、藩主が屋敷を建てて以降、季節の花々が咲き誇るようになった。そのことから、この場所は「御花畠」の愛称で親しまれるようになる。

御花の「御」は普通、自分が名乗る時にはつけない。他の人が敬意を込めて呼ぶ時に使う日本語の表現だ。しかし御花は、自ら名乗っている。それはこの場所がのちに料亭旅館になる時、「みんなに呼ばれてきた名前をそのまま使おう」と決めたからなのだという。御花という名前こそ、この場所が多くの人に親しまれてきた証なのだ。

由来を知ると、「御花」という響きに、数百年の思いがこもっているように感じられる。御花という名前、家としての存在価値。貞俶が今に受け継いだものはたくさんある。そんなふうに100年後にも残るものに、私たちも関われるだろうか。あなたに受け継がれているものは何だろう。あなたが繋ぎたいものは何だろう。考えてみてほしい。


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