寛治 土を耕し、知識と技術を繋いだ巨人

明治を迎えると、世の中は大きく変わった。立花家も大名家から伯爵家になり、西洋の文化が次々に入ってくる。西洋館は、そんな時代のシンボルと言える。白い壁に美しい絨毯、豪華なシャンデリア。西洋文化が花開いた雰囲気が漂うこの場所では、たびたび晩餐会が催されていたという。

時代が変わる中で御花を守ったのは、立花家の14代当主・寛治。当主となった時、寛治は東京の邸(やしき)に住んでいたが、のちに柳川へ移住し、ここ御花を本拠地に定めている。

伯爵として日本のために何ができるかを考え続けた人だった。農業の発展こそ日本の発展につながると考えた寛治は、御花から東へ行った土地に大規模な農業の試験場を作る。この試験場ではさまざまな農作物の品種が試され、優れた種や苗は全国の農家に提供された。ここで育まれた品種はたくさんあるが、代表的なものがブランドみかんの「宮川早生(みやがわわせ)」。甘味と酸味のバランスの取れた宮川早生は、たちまち高級フルーツとして取り引きされる存在になる。「みかんの売り上げがあったから、苦しい時代も御花は生き残ることができた」。御花の戦後を支えた16代当主・和雄は、自伝にそう綴っている。

軍人や政治家としての活躍を期待する者から非難されても、寛治は自ら土を耕し、野菜や果物を育て続けた。試験場での事業は地元の農家と一緒に行うことも多く、農業は柳川の経済そのものを支えるものとなった。寛治の思いは次世代へと引き継がれ、蜜柑園「橘香園」として今も続いている。

「巨人の肩の上に立つ」という言葉がある。先人たちが積み重ねた業績の上で仕事をし、新しい発見を目指すことだ。国のため、地域のため、農業に打ち込んだ寛治の知識と技術は、現在にも受け継がれている。もしもあなたが何かを探求し、極めようとしているのなら。その結果が100年後に残るものとして世界を発展させていくかもしれない。

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