文子と和雄 「なんとかなるわよ」と生き抜いた夫婦

寛治が設計した松濤園。雄大な池を中心に据えた庭園で、周囲のクロマツは海にさざめく波を模している。280本の松や岩の配置を、寛治は楽しみながら日々考えていたそうだ。

この松濤園と同時期に、西洋館や大広間など、現在も残る御花の姿が整えられた。それらが完成したのは1910年。この年、立花家に生まれたのが文子だ。立花家400年の歴史の中でも特に変化の激しい戦後を、文子は夫の和雄とともにたくましく生き抜いた。

戦後は日本中が苦しい時代だった。立花家も多額の財産税や、代替わりによる相続税のために東京の土地を売却しなければならなかった。さらに、農地改革によって広い農地の大部分を手放すことになる。苦しくなっていく財政を、なんとか支える日々。そんな中、御花の屋敷自体や代々の伝来品を売りに出す選択も頭をかすめたかもしれない。しかし文子と和雄は手放すのではなく、生かす方向へと進むことになる。

「宴会をしたいから、御花を借りられないか?」。きっかけは、そんな地元の団体からの相談だった。場所を貸すついでに、お酒も用意する。さらに頼まれて、料理も用意する。そんな世話をするうちに、この場所を料亭旅館にするという考えに行き着いた。料亭旅館「御花」の誕生だ。

伯爵家のお姫様として生まれた文子が、料亭旅館を切り盛りする女将になった。その変貌ぶりを嘆く人もいたが、お客をもてなす姿はいつも楽しそうだったという。そこには、自分の力で御花を守っている手応えもあっただろうか。

「なんとかなるわよ」。それが文子の口癖だった。ある人は、それはただの楽観ではなかったと話す。「私がなんとかするから大丈夫よ」という、強い覚悟の言葉だったのだと。

文子の姿に励まされながら、和雄は柳川を観光地にできないかと考えはじめる。名物となっている「川下り」も、和雄が発起人の一人だ。二人がいなければ、柳川は観光地になっておらず、あなたがここに来ることもなかったかもしれない。

「なんとかなるわよ」と駆け抜けた文子は、100歳まで生きてその生涯を閉じた。彼女が守り通した御花の建物は、今もこうして残っている。その思いとともに、受け継がれている。


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