ここにも船玉があります。古河屋の船玉に比べてどうでしょう。その装飾性の高さから、船そのものが神様であるという信仰がより感じられるのではないでしょうか。古河屋だけではありません。西津はたくさんの北前船関連の店が建ち並ぶ港町でした。もしかすると、この船玉は西津の人たちが合同で奉納したものかもしれません。
港町としての西津はどのような道を歩んできたのか。まず、地名から西津を考えてみましょう。西津とは、西側の港。つまり、かつては西津より古い港が、東側にあったことになります。実は、内外海(うちとみ)半島の付け根の部分に「古津」という地名が残っているのですが、その古津に対して西側にある港が西津なのです。
そんな西津の中でも、この宗像神社のそばに「湊」という地名が残っています。つまり、古くはこのあたりに海岸線があり、古い港があったのです。それから港としての歴史は続き、江戸時代になると北前船が着港します。
そのころには、現在の位置まで伸びていた海岸線。その地名を見てみましょう。そこには「小松原」「下竹原」「新小松原」といった地名があります。注目すべきは「下竹原」。実は、小浜城の近くに「上竹原」という地名があります。ということは、かつて下竹原は上竹原の隣にあったはずです。しかし、小浜城をつくるにあたり、もともとそこに住んでいた漁師たちは引っ越しを余儀なくされます。そのとき、町の名前も一緒に持っていくことにした。だから、この場所に下竹原があるのです。その後、西津の人口が増えるとともに小松原に対して新小松原と名付けられた新しい集落が生まれ、町が東に伸びていったことがわかります。
その他にも、北塩屋、堀屋敷、火除町などの地名があります。それらの意味も想像してみましょう。古い地名が残る西津ではそれだけで色んな歴史が見えてきます。