このあたりは網目のような道が伸びています。太良右ェ門町、仁右ェ門町、九郎兵ェ門町、これらは網元と呼ばれる漁師の名前が地名になっています。この加門町通りの加門さんもまた小浜城の築城にともない引っ越してきた地曳漁師の名前です。海の資源は限られていますから、誰がどこで漁をする権利を持つかは重要な問題でした。下竹原の漁師が引っ越してきたときも、この問題で揉めたといわれ、それぞれが自分の家の前で漁をして、網の権利がない者は沖に出て魚をとるしかなかったのでしょう。
漁師と北前船は船に乗るという共通点はあれど、まったく別の商売です。護松園のある通りは北前船に関わる人たちで賑わっていましたが、一本、海側の裏道に入ると、漁師が暮らす漁師町が広がっていたというわけです。
しかし、のちに古河屋の初代となる創業者はもともと漁師でした。ある日、鰤をとるために能登半島まで漁に出かけたときのこと。不運にも船が遭難してしまいます。兄弟の命をも失う大きな事故でしたが、その男は命からがら西津に帰りつきました。そして、裸一貫で再起を図ります。船を操縦する技術を武器に小浜にあった北前船の会社に就職し、北前船のいち乗務員として再出発。そこから、一隻の船を取り仕切る船頭へと成り上がり、独立して古河屋を立ち上げるのです。
漁師から北前船の船頭、そして経営者へ。そんな一攫千金を夢見る漁師たちが、西津にはたくさん暮らしていたのかもしれません。