神宮寺には神社にあるはずの「しめ縄」が張ってあります。そして、お参りの際は「かしわで」を二回うちます。なぜでしょうか。それは「神宮寺」という名前の通り、神社とお寺が一体となっている場所だからです。
本堂の中には、お寺としての薬師如来像と、神社としての神棚が並んでいます。かつての日本にはまず神社があり、そこに中国から渡来した仏教が入ってきます。そして、中央政権である都は仏教を取り入れることを決めて、日本全国の神社にお寺を融合させながら神仏習合というひとつの信仰をつくっていきます。そんな変革期の姿が残っているのが神宮寺なのです。
本堂の隣では聖なる水が湧き出しています。この水を使った神聖な儀式があります。それが「お水送り」です。この水を汲み取り、赤土をなめ、護摩壇で火を焚くなどの儀式をしたのちに、鵜の瀬まで運んでいきます。そして、鵜の瀬の川に聖なる水を流します。すると、川の淵には奈良につながる地下水路があり、東大寺にある「若狭井」という井戸から、この水が湧き出してくるといわれています。そんな「お水送り」の水を受け取り、東大寺の「お水取り」という儀式がはじまります。それは、1300年続く、国家の病気といえる厄災から国を守り、五穀豊穣を願う行事です。
なぜ、若狭の水を送るのでしょうか。そこには、こんな神話が残されています。東大寺の大仏が完成したとき、全国の神様が集まる集会が開かれることになりました。しかし、遠敷明神は魚釣りをして遅刻してしまいます。魚釣りといっても趣味で遊んでいたわけではなく、食を司る御食国の神様として、やるべき仕事をしていたら遅れてしまったのでしょう。遠敷明神が東大寺に到着したとき、集会はすでに始まっていたのですが、その荘厳な様子に感動した遠敷明神は魚だけではなく、お水も一緒に送ることを約束しました。すると、鵜という水鳥が岩を砕いてあらわれ、たちまち聖なる水が湧き出しました。
こうして、東大寺につながるお水送りの儀式がはじまったといわれています。当時の都は東大寺をつくり、仏教を軸に国家をまとめていこうと決めた変革期。そのためには、古くからの神々と、新しい仏様を融合させる必要がありました。神宮寺はまさにその最前線であったのかもしれません。