若狭の宝はなぜ残っているのか? その理由のひとつは、都が不老不死の象徴として若狭の水を求めたから。そんな深いつながりがあったからこそ、それと引き換えに都の仏教文化が流れこんできたのです。

若狭の宝探しの旅は続きます。この先は番号の順番にとらわれずに、自由に巡ってほしいと思います。

その前に、地図上で東大寺のある場所、つまり奈良の都があった場所を見てみましょう。そこは若狭からちょうど真南の場所にあります。そして、同じ御食国である伊勢や淡路も探してみてください。すると、都を中心にきれいなトライアングルが構成されていることがわかります。京都に都が移っても、そのことは変わりません。都からいちばん近い海を御食国として、太平洋の幸を伊勢から、瀬戸内海の幸を淡路から、そして日本海の幸を若狭から。そうして、人間の根本である食を軸に国をつくろうとした意志が見えてくるようです。

ここで、日本における仏教の話を振り返ってみましょう。中国から日本にもたらされた仏教は、聖徳太子に保護されて南都六宗という6つの宗派に分かれます。有名な鑑真は来日してそのうちのひとつである律宗を広めました。それと同じように、有名なお坊さんに来日してもらい、華厳宗(けごんしゅう)を広めようとしたのが良弁でした。そして、東大寺のもととなる寺をつくり、同じタイミングで若狭に神宮寺のもととなる寺をつくります。というのも、良弁が生まれ育った出身地は鵜の瀬だという説があります。のちに良弁は東大寺の初代リーダーに就任しますが、東大寺のお水取りと、神宮寺のお水送り、このふたつがつながっているのは、良弁という人物の物語を象徴しているのかもしれません。

日本に伝わったばかりの仏教は、今とは役割が違うものでした。個人ではなく、国家を守るための学問であり、今でいう大学のような役割も持っていました。それから数百年が経ち、平安時代の終わりや鎌倉時代になって、個人を救済する浄土宗や禅宗といった仏教に変化していきます。民衆の信仰によって成り立つようになったお寺は、民衆に仏教を伝えるための物語を必要とし、各地で新たな縁起が創造されていくのです。その物語の中には、当時の人たちが伝え聞いていた歴史が隠されています。でも、それが何であるかは今や誰にもわかりません。だからこそ、物語をどう読むかは私たちの自由なのです。

声:八百比丘尼

ON THE TRIP 編集部
志賀章人・本間寛・奈良音花

※このガイドは、取材や資料に基づいて作っていますが、ぼくたち ON THE TRIP の解釈も含まれています。専門家により諸説が異なる場合がありますが、真実は自らの旅で発見してください。

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