ここに、大きな石があります。現在は身を清めるための手水石として使われていますが、もしかすると、この石はすごい宝物かもしれません。
日本に仏教が伝わるより昔、若狭は「膳臣」の一族が治めていました。膳(かしわで)という字は食事をあらわす「お膳」の膳です。それは、天皇が住まう都の食事を司っていたから。それも塩や魚を納めていたからと言われています。そうして、都との交流は古くからあったのですが、そのつながりを示すこんな物語が残されています。
その昔、若狭を治めていた膳さんは天皇の宴に呼ばれました。池に舟を浮かべながらの優雅な宴会だったのですが、膳さんが天皇の杯にお酒をおつぎしたところ、ひらりひらりと、桜の花びらが舞い落ちました。季節は冬。桜なんて咲いていないはずの季節です。この小さな奇跡に喜んだ天皇は膳さんにある名前を授けました。それが「わかさくらべのおみ」。これが若狭という国の由来になったともいわれています。
若狭ではそんな膳さんにまつわるお墓とみられる古墳がたくさん残っています。その中でも最後の方の古墳といわれているのが、今、あなたが立っている地面の下にある太興寺古墳群です。なぜ最後の方なのかといえば、ちょうどこのころに仏教が伝わり、古墳の代わりにお寺をつくるようになるからです。というのも、このあたりでは平城京に似た模様の瓦が発掘されています。そう、神宮寺と同じです。膳さんは奈良からの仏教文化を受け入れて、いつもの古墳ではなく大興寺というお寺を建てることにした。そんな変革期であったのかもしれません。
この石は、その太興寺の礎石ではないかといわれています。太興寺は大きく興すと書きます。その名前の通り、大きな石に大きな穴が掘られていることから、大きな塔の柱を支える台座ではないか。それほどのお寺が、この場所に建っていたのかもしれません。