東大寺をつくった聖武天皇は、全国各地に国分寺をつくらせました。南大門、中門、金堂が一直線に並び、中門のとなりに五重塔がある。そして、国分尼寺とセットになっている。それが国分寺のあるべき姿です。しかし、この国分寺には珍しくも古墳がふくまれています。古墳を潰してしまわずに、残して取り入れる形にしたのはなぜでしょう。それは、この国分寺をつくった人物が、古墳にゆかりのある人物だったから。そう考えると、膳さんの末裔がつくったのかもしれません。
この古墳の頂上には神社があり、若狭姫が祀られています。なぜ、若狭彦ではなく若狭姫なのでしょう。これも若狭姫がイコール遠敷明神であり、古くからの土地の神様であるとすれば、古くからの土地のリーダーであった膳さんが大切にしたのも頷けます。いずれにせよ、古くからの古墳と新しいお寺の融合という、これまでと同じ物語がこの国分寺でも見て取れるのです。
しかし、この場所からは平城京の瓦が発掘されていません。でも、太興寺からは発掘されています。このことは、はじめは太興寺が国分寺として使われていた可能性を示しています。また、国分寺の総本山は東大寺であるからして、東大寺の大仏と同じ盧遮那仏があるはずなのに、この国分寺には釈迦如来が祀られています。盧遮那仏はどこに消えたのでしょうか。実は、薬師堂にある薬師如来は尼寺の本尊であったという伝承も残されています。とすれば、この場所が国分尼寺であった可能性もあります。
これらのピースを組み合わせると、このような仮説が立てられます。本来あった国分寺に若狭彦を祀り、尼寺である国分尼寺に女性の若狭姫を祀っていた。しかし、国分寺が燃えるなどして失われてしまったので、残った国分尼寺を国分寺にあらためた。では、もともとの国分寺はどこにあったのか。それこそが太興寺であり、太興寺跡こそが本来の国分寺跡なのかもしれません。