隠岐は古事記の「国生みの神話」において、淡路島、四国に続いて3番目に誕生しました。それも3つ子の島だと記されています。隠岐は4つの有人島からなりますが、なぜ、3つ子の島として誕生するのでしょうか?それは、みなさんがいる「島後」の島が母なる島で、島前の三つの島が子どもであるということです。また、島前3島にはそれぞれ「西ノ島」「中ノ島」「知夫里島」と島の名前が付けられているのに対して、この島後には島の名前がありません。島後というのは島前・島後の地名であって島の名前ではないので、日本、あるいは世界の有人島の中で唯一、島の名前が無いのがこの島後なのです。では、なぜ島の名前が付けられなかったのでしょうか。諸説ありますが、島後が母なる島なので名前を付ける必要がないと考えられたからなのです。

【遠流の島・隠岐】
隠岐は後鳥羽上皇や後醍醐天皇が島流しに遭った場所として知られています。実は、討幕運動を起こすような力を持った天皇を流すのは隠岐でなければならなかったのです。それはなぜでしょうか。ヒントは「隠岐のアワビ」にあります。平安時代以降、天皇が即位するときには隠岐のアワビが供えられたほか、大臣クラスの人物のボーナスもまた隠岐のアワビが与えられました。しかし、知事クラスではもらえません。なぜ、隠岐のアワビが最高級のブランドとして使われたのでしょうか。その理由は隠岐の位置にあります。隠岐はその当時の都であった奈良や京都から見て北西の方角にあり、吉兆をもたらす方角であったことから隠岐のアワビが使われてきたのです。つまり、討幕を企てた天皇として簡単には都へ引き返すことができない離島が選ばれつつも、あくまで天皇を流すわけですから、そのことを配慮して縁起のいい方角にある隠岐が選ばれたのです。

【すべては黒曜石からはじまった】
隠岐が島流しの場所に決められたのは奈良時代のことなので、その当時から隠岐がどのような島であるのかは知られていたということになります。その理由は黒曜石という石を通して知ることができます。黒曜石の展示へ移動してください。黒曜石は旧石器時代から、縄文時代、弥生時代にかけて石器の材料として使われた岩石です。黒曜石の産地は国内で100箇所以上知られていますが、古代人は黒曜石の質の良し悪しを見極めていて、石器に使われた主な黒曜石の産地は隠岐をふくめて6箇所ほどしかありません。隠岐の黒曜石は3万年前から中国地方を中心に運ばれていたことが判明しており、古代から隠岐の黒曜石を中心とした人・文化の交流があったからこそ、隠岐がどのような島なのかが知られていたのです。

それでは、実際に島を旅してみましょう。それぞれのスポットに着いたら音声を聞きながら歩いてみてください。

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