立山は平安時代から焼き物が作られてきた、土に恵まれた土地です。現在に続く越中瀬戸焼の歴史は、およそ430年前にさかのぼります。加賀藩の殿様によって尾張瀬戸から招かれた陶工が、この土地に窯を築いたことがはじまりです。
越中瀬戸焼では、地域の里山から採れる良質な粘土を使います。「白土」と呼ばれるその土は、粒子が細かく耐火温度が高いため、緻密な陶器を作ることができます。
その越中瀬戸焼を受け継ぐ一人が、釋永陽さんです。陶芸家の父・由紀夫さんの作品と、立山の自然に触れながら育ちました。「小さな頃から芦峅寺の雄山神社へ参拝に行っていました。開山伝説の話に興味を持ったのは大人になってからのこと。誰かが訪ねて来ると、雄山神社の荘厳な立山杉樹林や閻魔堂、布橋にお連れしています。自慢ですね」
陽さんが見せてくれた作品は、一枚の丸い平皿。静かな水面に広がる波紋のようなデザインです。
「波紋が好きなんですよね。これは何年か前のものですが、同じデザインで色んな大きさのお皿を作りました」
具体的に、「あの時に見た波紋」というわけではないと言います。これまでに見てきた波紋のイメージが陽さんの中に折り重なっていて、手を動かす中で自然と出てきたのだそう。
立山らしい景色ってなんだと思いますか。陽さんに聞いてみました。
「昔からずっと変わらない、なんでもない里山の風景ですかね。本当は『立山連峰です』と言いたいんですけど(笑)。住んでいるところが近すぎて、景色としては見えないことも多いんです」
近すぎて見えない。つまりそれは、立山の中で暮らしているということでもあります。だからこの土地で作られる陽さんの作品も、もちろん立山から影響を受けています。
「制作のすべてがつながっていると思います。具体的にこのかたち、とかではなくても」
それとわからないかたちで、しかし確かに息づいている。お皿のモチーフになった波紋にも、水田で、雨上がりの水たまりで、川で、陽さんが見た立山の景色が流れているのでしょう。
陽さんは三人兄弟の長女ですが、他の二人もそれぞれ陶芸と金工の作家をしています。父親の影響で幼少期から陶芸は身近な存在でしたが、自分がその道に進むとは考えていなかったそうです。
「あまりにも日常的に父が製作しているから、逆に自分がやるなんて考えなかったんですね。でも、父の友人もものづくりをしている人が多かったから、会社員になるイメージも持てなくて。中学生か高校生くらいの頃には、自分も手でものを生み出す人になりたいと考えるようになっていました」
本格的に作陶と向き合ったのは、高校を卒業した頃です。
「進路に悩んだ時、はじめて土揉みをしたんです。土揉みは、粘土を揉んで空気を抜いていく作業のこと。空気が入った粘土を使うと焼き上げた時に割れてしまうので、とても大事な作業です。何度も何度も繰り返し揉んで、いいかなと思ったら1センチの薄さにスライスして、空気がちゃんと抜けているか確認します。空気が入っていたらやり直し。単純な作業ですけど、土の感触が心地よくて楽しかったんです」
土揉みが一人前になったら、ようやくろくろに粘土をのせて成形します。基本的な茶碗のかたちを練習しては潰し、またかたちを作っては潰す。焼き上げるところまでは、なかなかたどり着けません。というのも、粘土は焼いてしまったらもう元には戻らないから。地域で採れる限られた土を使うからこそ、材料をとても大切に扱うのです。
ようやくかたちが整った茶碗を由紀夫さんに認められて、窯へ入れて焼き上げます。「自分のが窯に入っているというだけでうれしかったです」と、陽さんは当時を振り返ります。
その後も、焼いた作品は由紀夫さんの作品を買った人に無償であげる期間が5年ほど続きました。長い長い修行期間を経て、陽さんは越中瀬戸焼を背負う陶工の一人になりました。
陽さんが制作で心がけているのは、生活に寄り添う器づくりだといいます。
「使い勝手のいいものが好きなんですよ。薄いもの、軽いもの、重ねやすいものをよく作っていますね。何をのせて食べるのがいいかなとか、使う時のことをイメージしながら作っています」
最後に、制作では「平常心」という言葉を大事にしていると教えてくれました。
「立山が常にどっしりと構えているからなのかもしれません。冬の時期はいつもこもって作陶をするんですよ。寒い季節の間、じっと心を落ち着けて、集中して土に向き合う。それができる環境は、富山の良さだなって思います。ものづくりに向いている土地だと思いますよ」