ポルトガルから日本に伝来した物のひとつに、鉄砲がある。種子島に漂着したポルトガル人が持っていた2丁の鉄砲。そのうちの一丁を堺の商人が買い付けしたことで、鉄砲が量産されることになった。しかしなぜ、堺で鉄砲を量産することができたのだろうか。公園内にあるモニュメントを見ながら、その歴史を紐解いていこう。

歴史は古墳時代にまで遡る。堺には、古墳を造る高い技術を持つ職人がいた。その職人たちは次第に鉄や銅を使って金属製品を鋳造する技術を持ち、技術者集団となった。堺に鉄砲が伝わると、分解してパーツごとに職人を置き、鉄砲をつくった。鉄を鋳造する技術と分業生産の仕組みがあったおかげで、初めて見た鉄砲でさえも大量生産を可能にした。こうして堺は日本一の鉄砲の生産地になった。

貿易港として繁栄した、堺の黄金の日日。しかし、それが本当に素晴らしい日日だったかというと、そうとは言い切れない。富の多くは鉄砲からもたらされ、堺の商人は武器で財を成した「死の商人」としての顔も持っていた。人を殺める武器には、恨みがつきまとう。街の周囲を濠で守り固めたのは、他から干渉を受けないためだけではなく、自分の身は自分で守る必要があったからなのかもしれない。

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