紀州街道沿いに南へ南へ。宿院の交差点で立ち止まり、周りを見渡してほしい。このあたり一帯には、幻の堺幕府があったといわれている。
少し歴史を振り返ろう。黄金の日日が始まる少し前、京都で応仁の乱が起こった。長い大乱の果て、京都の街は荒れ果てた。
さらにその頃、室町幕府では、跡継ぎ争いが勃発。そこで活躍したのが、阿波国のとある武将。
幕府の後継者の一人を擁立し、堺幕府を開いた。しかし、武将は敵方に死に追いやられ、堺幕府はたった5年ほどで終わりを迎える。
ただ、堺幕府もその武将の死も無意味ではなかった。武将の子は父の仇を討ち、さらには将軍家を追い出し、自ら政権を握ることができた。彼は海外貿易にも関心を持ち、キリスト教の布教の許可を出した。さらに、功績をあげた者に対する褒美として茶器を与えたのも、彼が始めたことだと言われている。
南蛮貿易を行っていたのは、主に長崎や大分、鹿児島などの九州、そして堺や京都の商人だった。中国や東南アジアを経由し、日本へやってきた南蛮船は長崎から瀬戸内海を通る瀬戸内ルート、そして琉球から鹿児島、土佐を経由して堺へとたどり着く南海ルートがあったといわれている。
貿易船が運んできた異国の品物が売買され、自治都市として独立した立場を保っていた堺。応仁の乱で荒廃した京都から、多くの貴族や文化人が逃げ込んできた。その中の一人に「一休さん」という僧侶がいる。
一休にまつわるこんな話がある。ある日、真っ暗な闇の中で座禅をしていていると、闇の中で鳥が鳴いた。師匠に「これが悟りだと感じた」と話すと、「それはまだまだ小さな悟りである」と聴き入れようとしない。「それならば私は小さな悟りで結構」と言うと、「そう思えることこそが大きな悟りだ」と返された。
一聴しただけでは、何のことを言っているか理解し難いこの禅問答。話を額面通りに受け取っていては、決して理解することはできない。しかし「茶道と禅の求める境地は同じである」と
多くの茶人が茶禅一味の精神を説いたのだ。