さかい利晶の杜の向かいには、千利休の屋敷跡がある。ここに在る井戸屋形は、利休とは切っても切り離せないほど縁深い、京都・大徳寺にある山門の木材を使われている。

利休が茶道を指南した天下人・豊臣秀吉。秀吉は利休を重用し、お茶だけでなく政治に関することも相談するほどの仲だったとか。しかし千利休は秀吉の怒りに触れ、切腹を命じられる。一体、何があったのか。

その理由には様々な説があるが、そのうちの一つに大徳寺の山門が関わっている。山門を改修する際に利休が出資し、そのお礼にと住職が利休の木像を山門の上部に安置した。すると秀吉は「山門を通るたびに、利休の足で踏み付けられているも同じではないか」と激怒したという。

さらに、茶道具を勝手に大量生産しようとしたとして「売僧の罪」にも問われた。希少価値の高い茶器を持つことが武士の誉れとされていたのにも関わらず、利休はお抱えの職人にオリジナルの茶器をつくらせた。茶人のトップが茶器をつくれば、秀吉が集めた高価な茶器は二の次となり、褒美としての価値も下がってしまうと畏れたのだ。

いくつもの理由をつけて、秀吉はいち商人である利休に切腹を命じた。茶の湯を大成し、時の権力者に大きな影響を与えた千利休。千利休とはどのような人物だったのか、しばし想像してみてほしい。

秀吉の怒りに触れ、利休が切腹を命じられることになった理由はまだある。

大徳寺の山門に安置された像は、雪駄(せった)を履いていた。茶室に入る際、下駄ではカランコロンと音を立てるので風情がない。そこで音がならないように、利休は牛皮を貼った雪駄をつくったのだ。しかし当時牛皮は、穢多非人(えたひにん)という身分が低い者がつくるものであった。つまり、穢多非人がつくった物が、天皇や自分のような高貴な身分の者も通る山門の、それも頭上にあるとは何たることか。それは不敬に値するぞと怒り狂ったのだ。

当時の堺では皮革産業が盛んで、利休の師匠である武野紹鴎は武具の皮革で財を成したと言われている。機動性が必須である鎧には、皮が用いられていた。紹鴎の弟子である利休が、雪駄に皮を使うのはごく自然なことである。

頭を下げれば許すと言った秀吉に対し、頭を下げる道理はないと返し、潔く切腹の道を選んだ利休。それは権力を身に着け、どんどん様変わりしていく秀吉への忠告だったのかもしれない。利休の死後、秀吉は利休を死に追いやったことを後悔していたとも言われている。

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