妙法寺には、落語の祖・曽呂利新左衛門の墓がある。この時代の堺は、実にタレント揃い。その「そろり」という名は、刀の鞘師だったことに由来している。曽呂利は長さを測らずとも、刀と鞘がピタッと合い、そろりと収まる鞘を作る名人だった。ここからも堺のものづくりが分業制で、それぞれにエキスパートがいたことが伺い知れる。
そんな曽呂利は、落とし噺の名手だった。お伽衆という、いわゆる話相手をする世話役として秀吉に仕えていた。一説によると、秀吉は3000人ほどの御伽衆を抱えていたのだとか。中でも曽呂利はユニークな話術で気に入られていた。お伽衆は戦で味方を鼓舞する時、権力を示す会議など特に重要な場面でスピーチライターとして活躍した。農民から成り上がった秀吉にとって、話術は最大の武器であったのだ。
曽呂利のユーモアさを伝えるこんな話がある。
ある時、秀吉が「いつものように面白い話をしてくれ」と曽呂利を呼び出した。秀吉は曽呂利の巧みな話術に機嫌が良くなり、「また、曽呂利にしてやられた。褒美をとらせよう」と約束した。しかし曽呂利は「秀吉殿の耳の匂いを嗅がせてください。しかも今ではなく、私が嗅ぎたいと言った時にです」と摩訶不思議なお願いをしたのだった。訝しがりながらも承諾する秀吉。
そして時は過ぎ、秀吉の元に全国から名だたる武将が集まり、重大な会議を行う日が来た。緊迫した空気で会議が進む中、扉を開けて入ってきたのは曽呂利だった。武将たちの鋭い視線を浴びながらも、秀吉に近づき「秀吉殿、例のものを」と言う。秀吉も困惑するが、約束は約束。曽呂利は秀吉の元に近寄り、耳に手を当てて匂いを嗅いだ。
それを見ていて驚いたのは武将たちだ。会議を止めてまで、曽呂利が耳打ちしたのは何のことか。「まさか自分の思惑が見透かされたのでは」と疑心暗鬼になる。それもそのはず、天下統一を果たしたばかりの秀吉を、快く思っている者はいなかったからだ。
当然、各武将は曽呂利に近づき「褒美をやるから何を言ったのか教えておくれ」と問いつめる。しかしのらりくらりと上手く交わし、曽呂利の手元には褒美だけが増えていく。それを知った秀吉は「あぁ、また曽呂利にしてやられたわい」と呟いたそうな。ちゃんちゃん。