佐渡では古くから砂金を拾うことができましたが、金の価値が高まると同時に金山が見つかったことから、金山を掘って採掘するようになり、江戸時代には幕府が直接管理するほど重要な島となります。その中心がここ相川でした。

相川という町は、金山が見つかるまでは10数件の小さな漁村でした。それが金山によって人口5万人といわれる大都会に変貌します。5万人といえば、現在の佐渡の総人口であり、当時の江戸の人口密度に匹敵しました。金を掘る人だけではなく、その生活を支える人々が集まった結果です。佐渡の中心にあるべき役所=奉行所が相川に置かれたのも自然なことでした。

しかし、金を掘るのは大変な重労働でした。その中に無宿人と呼ばれた人たちがいます。それは村から追い出されたり逃げ出したりして江戸に集まっていたホームレスでした。江戸幕府は彼らが犯罪をすることを恐れ、人手が必要な佐渡の金山に送りこみました。彼らは金山で岩を掘り下げた時に出てくる地下水をくみとりました。電動ポンプがなかった時代の人間ポンプです。三交代で昼夜を問わず行われたといわれ、無宿人の大半は暗い坑の中で死んでいったと言われます。「どさまわり」という言葉はさどまわり。ドサはサドを逆さにした隠語といわれ、暗い響きがありました。

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