みなさん、ようこそ愛媛県へ! 私は旅するシンガーソングライターの「Miyuu」です。実は、私は愛媛県の新居浜生まれなのですが、新居浜は宇和島ととっても離れているので予土線に乗ったのも今回がはじめてでした。実際に乗ってみると二名駅に停車したとき、ふと車窓を見ると近くに小学校があって、その子どもたちが手を降ってくれていました。列車が走り出すと走って追いかけてまで手を振り続けてくれたのを見て、こんな風景が残っているなんて愛媛だけじゃないかなって嬉しくなりました。
はたして、みなさんにはどんな旅の景色が記憶に残るでしょうか。これから私がナビゲーターとなって、予土線に乗車するみなさんに、予土線の物語についてご紹介したいと思います。それでは、出発進行!
みなさんは、日本で最初の鉄道をご存知でしょうか? それは東京の新橋と横浜を結んだ鉄道です。その鉄道が開業したのが明治5年。それから50年後ぐらいに予土線が誕生しました。これはけっこう早い時期にできた鉄道といえるみたいです。それくらいたくさんの人のニーズがあったといえるかもしれません。というのも、昔から宇和島はお魚の海産物で栄えていたし、松丸駅のある松野町は木材や薪によって栄えていました。それらの特産物を運ぶ術はないかと、地元の名士たちによって鉄道がつくられたのです。
ちなみに愛媛で一番最初の鉄道は松山で見られる伊予鉄道で、小説の坊ちゃんにも出てくるあの蒸気機関車です。客車も木箱にいれられて船便で運ばれてきたというほど、とっても小さな機関車でした。そんな伊予鉄道の開業からおよそ30年後、予土線の前身となる宇和島鉄道が開業します。大正時代の1914年に宇和島駅から近永駅までが完成して、それからおよそ10年後には吉野まで延伸、そこからさらに県をまたいで高知県にまで線路が伸びていきました。
開業当時、最初に線路を走ったのは「コッペル」と呼ばれる赤い機関車でした。ドイツのコッペル社がつくった機関車だからコッペルと呼ばれたそうです。宇和島駅にはコッペルのレプリカも置かれているのでよかったら探してみてください。このコッペルは馬力はあるほうだったのですが、予土線は山の中を走ります。アップダウンがとても激しいですから、コッペルの力を持ってしても坂道を登るのが大変でした。たくさんのお客さんが乗っている時は前から引っ張るだけではなく、後ろにも機関車をつけて押さなければならないほどで、後ろに機関車がいないときは、「男だけ降りて押してくれ」と乗客が機関車を押して坂道を登ったそうです。信じられませんよね!
昭和になるころにはもっとパワーのある蒸気機関車が走るようになって、汽車が走る音が登り坂になると「ナンダ坂、コンナ坂」と聞こえて、とっても力強く逞しく感じたといいます。
そんなに急な坂道はどこかというと、北宇和島駅から務田駅に向かうときの坂道です。列車のスタートと同時に「よーい、どん!」で、この音声を再生していたら、まさに「これから」かもしれません。耳を澄ませてみるとエンジンの音が大きくなっていることに気がつくことでしょう。はたまた列車の車輪が「空転」したことに気づく人もいるかもしれません。とくに秋には落ち葉を巻き込んで車輪がすべりやすくなります。そのため、運転士さんのそばには砂の入った大きなペットボトルが置かれていたりします。これは線路にまいてすべり止めにするための砂です。今の列車でもそれくらい大変な坂道なんです。
この大変な坂道を登り切ったところにトンネルがあります。今のトンネルは二代目なのですが、すぐそばに初代のトンネルがあります。昔は、煙をもくもく出しながら走る蒸気機関車だったので、このトンネルに入るときには「窓をしめろー!」と声があがり、窓のそばにいる人は慌てて窓を閉めなくてはいけませんでした。うっかりタイミングを失敗したときには車内に煙が蔓延して鼻の穴がまっくろけになったといいます。
そのころの列車に乗ると、高知県から通学している子どもたちがいて、彼らは土佐弁を話しました。愛媛県の人は伊予弁を話しますから車両の中で土佐弁と伊予弁がまじりあうようにして、学校や先生のことを話し合っていたといいます。そのころは、宇和島に通勤する大人たちもたくさんいて、朝のピーク時には6両編成で運行していたにもかかわらず、それでも座席は満員で立っている人がたくさんいました。中には大きな荷物を担いだおじさんやおばさんもいて、それは行商の人たちでした。宇和島からいりこやじゃこ天などの海の幸を運び、帰りには米や椎茸といった山の幸を運んで商売するような人たちで、本当にいろんな人たちが一緒になって談笑をする社交場のようになっていました。
そのころの話で、こんなエピソードが残っています。学生の男の子のある日の帰り道、「君、お父さんは元気か」と突然、大声で声をかけられました。誰かとおもえば「岡田倉太郎さん」。松野町の初代町長でとても豪快な人物として知られる有名人でした。男の子はそんな有名人に声をかけられてびっくり。「はい元気です」と答えるのが精一杯だったといいます。それから岡田倉太郎さんは「列車内だから内緒の話やけどの」と内緒話をもちかけましたが、その内緒話は列車のすみずみまで聞こえるほどの大声だったとか。本当に豪快な名物町長らしいエピソードですね。
はたまた年頃の女の子たちは列車の中で恋の悩みを大きな声で話題にするわけにはいかず、カッコイイ先輩が列車に乗ってくると「来た来た」とお互いに目配せをして小突きあったりしたといいます。
松丸駅から宇和島駅まで「汽車通」をしていた学生たちは往復2時間、高校3年間で1000時間以上、列車内で過ごすことになります。同級生とくだらない話をしたり、列車の中で新しい友達ができたり、膝の上にカバンを置いてトランプしたり、いろんな思い出が詰まっているといいます。
物語は車両の外側にも残されています。あくまで昔の話ですが「10円せんべい」といって、列車が通り過ぎるタイミングを見計らい、その直前にレールの上に10円玉を仕掛けておきます。それから少年たちがわくわくしながら見守っているとやがて列車が通過します。その瞬間、火花か散ったかと思えばあっという間にぺしゃんこに。見事せんべいに変わった10円玉に興奮したといいます。
ほかにも、松丸駅で映画を見た帰りに仲間同士で鉄橋を歩いて渡ってみようと企んで「汽車が来たら大変なことになるぞ」「レールに耳を当てたら列車が来るかどうかわかる」「たぶん大丈夫だ、いくぞ!」と歩いて橋を渡ったといいます。その鉄橋は高くて怖くてとてもスリルがあったそうです。映画館で「スタンド・バイ・ミー」でも観たのでしょうか。これも今では怒られるだけではすまないお話ですが、昔のやんちゃな少年たちの冒険心が伝わってきますね。
ほかにも、「何者かが列車をとめた」という話があります。しかもこれは令和になってからの話。夜の18時過ぎに予土線を走っていた列車が、突然、線路に侵入していた何者かと接触、緊急停止したのです。現場は竹やぶが多く、夜になると鹿がよく出る区間でした。また鹿と接触してしまったのでしょうか。運転士さんが列車から降りて確認してみると、そこにいたのは動物ではなく、列車とぶつかったにもかかわらず、折れることなく立ち続けているタケノコでした。「それなら良かった」と、そのまま出発するわけにはいきません。後続の列車のために撤去しなくてはならないからです。しかし、タケノコは頑丈なため、撤去に悪戦苦闘する運転士さんの姿がネットでも話題になりました。
それほどのタケノコが生えていたなら前の列車はどうしたのだろう? と不思議に思う人もいるかもしれません。衝突した列車の前の列車が同じ地点を通り過ぎたのは、およそ1時間20分前のこと。しかし、タケノコは地表に出てくるまではゆっくり成長するのですが、いったん地表に顔を出すとそこからはぐんぐんと成長していく特徴があります。1日で1m30cmも伸びたという記録もあるそうなので、空白時間の1時間20分のあいだに列車と接触するほどに成長していたとしても不思議ではないのです。
と、ときに脱線しながら予土線にまつわるいろんな物語をお伝えしてきました。地域の人たちにとってはいろんな思い出が詰まった予土線ですが、実は今、利用客が減少しています。地域の人口が少なくなり、マイカーに乗る人が増えたためです。乗客数は減る一方で、予土線で100円を稼ぐには449円(※原稿作成時点)がかかるという試算もあります。つまり、赤字路線なのです。
きょうの日はどうでしょう。私が乗ったときは5人ぐらいしか乗っていませんでした。でも、今も昔も、子どもたちにとっては替えの効かない通学手段で、通学時間帯には車両が子どもたちでいっぱいの満員列車となります。そして、車窓から見える広見川や四万十川、それをとりまく田園風景はここでしか見られません。列車の中で過ごす時間で予習復習をする学生も多く、予土線で通学する子どもたちは優秀な生徒が多いともいわれています。
彼らは予土線のことをどんなふうに思っているのでしょう。
「愛とか、勇気とか、見えないものも乗せている。」そんなキャッチコピーもありましたが、列車が運んでいるのは人や物だけじゃないんだなと思いますよね。そういえば、私が予土線に乗ったときに小学校の子どもたちが手を降ってくれたとお話したと思うのですが、そのことを地元の人に話してみると、乗客に手を振るというのは子どもたちの発案だったそうです。お父さんやお母さん、お兄ちゃんやお姉ちゃんが予土線に乗って通学していたことを聞いて育った子どもたちは、「予土線がなくなったら自分たちはどうしたらいいのだろう」「なくなったら嫌だな、自分たちにできることはないかな」と考えていたみたいです。それで、数年前から列車に手を振ることを自分たちではじめて受け継がれてきたそうです。
予土線だけじゃなくて、四国の人たちは鉄道に対して「自分たちの路線だ」という意識が強いと言われます。それもあるから変わらない風景が残っているのかもしれませんね。
ところで、みなさんが今乗っている列車はどんな車両でしょうか。私が乗った列車はホビートレインのかっぱうようよ号。その名前の通り、列車の中にはたくさんのかっぱのフィギュアがあったりして、車両の中まで楽しい列車でした。そのほか、予土線には5種類の列車が走っています。
まずは「キハ32系」。予土線のキーカラー、白と水色の列車です。それとよく似ていますが、シルバーと水色なのが「キハ54系」です。これらはともに「レールバス」。実は、レールバスを初導入したのは予土線といわれますが、レールバスとはバスに列車の車輪をつけたような車両のことです。そのため普通の列車は1両で20mぐらいあるのに対して、キハ32系は長さが16mしかありません。車両の中を見てみると、座席の下のヒーターに「バスヒーター」と書かれていたり、乗り降りするドアもバスと同じもの。エンジンもバスと同じディーゼルエンジンです。そうして軽量化や効率化をはかった画期的な車両がレールバスです。当時は、そんな車両は長持ちしないとバカにされていたりもしたそうですが、今でも現役で走り続けていることが丈夫なことを証明しています。
それらのレールバスをベースにいろんなデザインが施された列車が走っています。緑の「かっぱうようよ号」のほかに、真っ黄色なのが「しまんトロッコ号」。今でこそ日本の各地でトロッコ列車が走っていますが、いちばん最初に「トロッコ列車」という名前で呼びはじめたのは予土線といわれます。なんでも四万十川が最後の清流と呼ばれて有名になりはじめたころ、景観を楽しめるように貨車を改造して窓をなくしたトロッコ列車に乗ろうというキャンペーンをはじめたそうです。現在のデザインは、あの有名な「ななつ星」を手がけたデザイナーによるものです。
そして忘れてはならないのが、まるで新幹線のような顔を持つ「鉄道ホビートレイン」です。見た目は新幹線なのに、こんな田舎を走っている風景がとてもユニークでよく雑誌でも紹介されています。現在は宇和島からの始発列車で走ることが多いので、地元の人は「始発の新幹線でいくわ」とシャレて言ったりするそうです。
このようにすべてが異なる列車、普通列車なのに観光列車のようになっているのが、おもしろいですよね。みなさんは行きと帰りで、どの列車に乗車することになるでしょうか。
さて、この「よーい、どん!で聴く予土線」、列車のスタートともに「よーい、どん!」で音声を再生していたら、あと少しで二名駅に差し掛かることでしょう。小学校の子どもたちが手を振っていたらぜひ手を振り返してあげてくださいね。ここからは、予土線で見逃してほしくない車窓の風景をお伝えします。帰りの列車に乗るときもふくめて見逃さないように探してみてください。
まずひとつは、宇和島駅の「機関庫」です。いわゆる列車が眠る場所のことですが、宇和島駅のそれは扇形をしています。帰りの列車が宇和島駅のホームに着く直前に左手に見えてきます。今は骨組みしか残っていませんが、扇形の機関庫に格納するために転車台を回転させて列車を片付けていました。戦時中はその先の山にトンネルを掘って、列車をトンネルの奥に隠していたという話も伝わっています。
もうひとつは、鬼ヶ城山をバックに広がる田園風景です。予土線は「鬼北町」を通って松野町に向かいますが、全国で唯一「鬼」の文字がつく鬼北町という名前の由来もこの鬼ヶ城山です。標高は1000m以上あって、いかにも鬼が住んでいそうな山に感じられますが、どうも鬼が住んでいたので鬼ヶ城山と呼ばれたわけではないようです。諸説ありますが、鎌倉時代に鬼王と呼ばれる強い武士がいて、その主君が討ち取られたときに、鬼王は自分の故郷であるこの地に主君の首を持ち帰り、この山にこもって弔ったことに由来するという説があります。
そして、もうひとつが松丸駅の広見川の風景です。列車は山あいを抜けてカーブしながら松丸駅に向かっていきます。そのとき、大きな川の風景がバーンと目の前に広がります。そうして松丸駅を降りたあとは、しばらくそこに立ち止まり、列車が発車するのを見送ってみてください。それからあらためてホームからの絶景を眺めてほしいと思います。駅舎から出ると昔ながらの駅前の飲み屋街の雰囲気もあって、新しい旅がはじまる気配がすることでしょう。
これらの風景を教えてくれたのは鉄道カメラマンのドツボさん。予土線を知り尽くしているドツボさんに予土線の魅力や撮り鉄としての魅力を聞いてみました。ぜひお聞きください。
ドツボさんにはいろんなことを教えてもらったのですが、たとえば、近永駅では今でも手書きの切符を買うことができます。現在はJR四国のエリア内に限られますが、昔は新幹線のチケットも買えたといいます。今でもあえて近永駅で「松丸駅から出目駅」の手書きの切符を買いに行く人がいます。それは駅名から「丸を待つ→目が出る」のゲンカツギとして受験生のおまもりにするためだそうです。「よーい、どん!」で音声を再生していたら、あともうしばらくで近永駅に到着することでしょう。
近永駅まで来れば、あと10分ぐらいで松丸駅に着くはずです。このガイドでは、松丸駅でまち歩きをしてみてほしいスポットもご紹介していますので、ぜひ聞いてみてください。
ちなみに、松丸駅の先には吉野生駅と真土駅があって、そこから先は高知県です。真土駅には四国でいちばん短いホームがあります。みなさんが見てきたホームが長いのは、予土線に6両編成の列車が走っていたころの名残です。真土駅は新しい駅なのでホームが短いのです。ぜひ、また時間があるときは愛媛の最果てまで行ってみてください。
そして、真土駅から先は鹿がよく出るエリアです。鹿と衝突してしまったら列車がしばらく止まってしまいますが、運転士さんが「遅れてすみません」と言うと「大丈夫、今日のうちに帰れたらいいけん」という言葉が返ってきたといいます。予土線はまさにそういうのんびりしたペースの列車です。ぜひまたそんなのんびりした気持ちで予土線に乗りにきてみてくださいね。