ニュータウンのことはじめ

時は明治。現在の池田駅の西側、呉服神社の鳥居の奥に「ニュータウンのことはじめ」ともいうべき街が誕生した。大阪の都市部では、稼ぎを求めて人口が爆発的に急増。住み込みで働いたり、近くの借家に住まうことが多かった。そんな時代に「郊外にマイホームを持とう」という提案をしたのが、阪急電鉄の産みの親・小林一三。

明治時代は鉄道建設ラッシュが起こり、各地で民営の鉄道会社が立ち上がった。のちに阪急電鉄となる「箕面(みのお)有馬電気軌道」もそのうちの一つ。箕面と有馬、2つの観光地と梅田をつなぐプロジェクトをスタートさせた。そしてこのプロジェクトを買って出たのが、小林だった。

しかし、沿線の村々は農村地帯で電車の利用者は少ない。「電車に猿でも乗せるのか?」と嘲る人もいたほどだ。小林は沿線となるまちを歩き、考えた。環境汚染が進む街中ではなく、空気のきれいな郊外にこそ、人の暮らしがあるべきではないだろうかと。

小林は「乗客は電車が創造する」という言葉を掲げた。箕面や宝塚には遊覧施設をつくり、池田には日本初の郊外型分譲住宅地「池田新市街」、後の室町住宅をつくった。周辺には病院、学校…と日常生活に必要な場もつくられ、発展していく。

さらに小林は、住宅を分割で購入できるローンの仕組みをつくり出した。元は銀行員だった小林ならではのアイデアだ。こうして富裕層だけでなく、いちサラリーマンでも郊外に家を持てるようになり、郊外から電車に乗って会社へ通勤するというライフスタイルが定着し、安定した乗客数を見込めるようになった。

仕事と暮らしの場を分けるという斬新なアプローチは成功し、現在も続くライフスタイルのスタンダードとなっている。

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