瓢簞山稲荷神社は、京都から高野山へ向かう東高野街道に接しており、巡礼が盛んだった江戸時代は多くの旅人が行き交う場所だった。そしていつしかこの辺りで吉凶判断をする老女が現れ、その噂が広まり、やがて多くの人が占いを目当てにこの地に足を運んだ。
それは道行く人の身なりや会話の内容を見て、運の行く末を占い、「次に角から曲がってくる人が女性なら、恋は叶うだろう」「お茶屋に座っている2人が儲け話をしていれば、商売はうまくいくはず」などと占ったそうな。次第にこの地には占い師が増えていったようだ。やがて、神社の宮司がこれらの占いを現在も続く「辻占判断」に整え、その評判は大阪のみならず、広く知られるようになっていった。
瓢簞山の辻占を一気に世に知らしめたこんな話がある。
幕末のある日、能登から来た浪人が「武士をやめて、店を開こうと思うが占ってほしい」と瓢簞山稲荷神社にやってきた。宮司は「西の賑やかなる所で店を構えよ」と言い、その浪人は大坂で魚すきの店を開いた。お盆に饅頭を載せた人が通ったので、「店の名は『丸萬』にすればよい」とも言った。その店は大いに繁盛し、浪人は感謝を込めて、稲荷の社に鳥居や玉垣を奉納した。現在も占場の鳥居や境内の玉垣にも、その店の紋が刻まれたものが今も残っている。
これが評判を呼び、船場の商人はこぞって瓢簞山へ足を運んだ。宮司は、ここまで来られない人たちのために、おみくじをつくって、「恋の辻占」という口上で大いに評判を呼んだ。日本全国どころか台湾から買いに来る客もいたんだとか。
明治終わりには、神社の周辺には茶屋や旅籠が軒を並べ、大層賑やかなまちになった。特に足を運んだのが、船場の相場師たち。船場から人力車で列をなしてやってきた。しかし皆が、かの有名な宮司に占ってもらえるわけでもない。
船場の商人が「ちょいと瓢簞山へ行ってくれよ」と人力車を呼ぶ。人力車は走りながら「旦那さん、何悩んでるんですかい」と話をする。「いや、俺の甥っ子がな」「それは大変ですなぁ」。すっかり打ち解けた旦那に「ほんなら、あそこの占いがいいんとちゃいますか」「じゃあ、任せたわ」。人力車の車夫は占い師に聞いた情報をこっそり流し、それで随分儲けたとか。
ところが時代が移り、鉄道が開通すると状況が一変する。電車が通ったことで瓢簞山は日帰りで行く場所になってしまった。
旅館やお茶屋は少なくなり、インチキの占いもまかり通らなくなった。
現在も、瓢簞山稲荷神社では当時と同じ「辻占判断」を行っており、予約をすれば占ってもらうことができる。また、社務所では「辻占おみくじ」を授与しており、線香の火をあてると運勢を書いた部分が焼き抜かれる「やきぬき」、火で文字が浮かび上がる「あぶりだし」など、おみくじの3種類が同封されている。そして最中の皮である餅花の中に辻占のおみくじが入ったものを笹にくくりつけた、フォーチュンクッキーの原型であるともいわれる「辻占ひょうたん笹」も知る人ぞ知る名物である。
旅の締めくくりに、占いと縁のあるこの場所で運勢を占ってみてはいかがだろうか。