毎年5月15日、京都で行われる葵祭。下鴨神社と上賀茂神社のお祭りで、祇園祭、時代祭とともに京都三大祭りのひとつに数えられています。その歴史はおよそ1500年前の平安時代よりも古い時代にまでさかのぼります。
当時、京都では、激しい風雨に見舞われ、作物が実らず、飢餓や疫病が蔓延していました。そこで、当時の天皇(欽明天皇)が原因を占ったところ、賀茂の神様の祟りであるということが分かり、天皇は賀茂の神様に使者を送り、お祭りをすることにしました。すると、風雨はおさまり、作物が豊かに実って国民に平和が戻ったといいます。
このお祭りが葵祭の起源と言われています。が、そのころはまだ京都に都がなかった時代です。当時の政権はあまりに多くの人が集まるこのお祭りを禁止するおふれを出したり、取り締まりを命じた記録も残っています。つまり、古くから賑わいのあるお祭りとして、この地に根付いていたことがわかります。それから平安時代になり京都に都が遷されると、もともと京都で祀られていた神様に敬意を払う意味で、賀茂社は格の高い神社に定められました。さらに、伊勢神宮と同じく、賀茂社だけに奉仕する「斎王」という役職が置かれます。それほど特別な神社として位置付けられたのです。こうして、賀茂社で行われてきたお祭りもまた国家的行事となり、より贅沢で格式高いお祭りになっていきました。
現代の葵祭で見られるのは平安時代の人たちの美意識そのものです。「お祭り」と聞いて想像するような、金銀きらめくお神輿に神様を乗せて担ぐようなものではありません。葵祭は祈りを捧げる側の人間が神様のもとへ向かう厳かなお祭りです。一見すると、慎ましく見えるかもしれませんが、平安時代の最高の贅沢を尽くした衣装や装飾、花飾りに彩られ、当時の美しさを極めたものでした。当時の一般市民にとっても一年に一度の楽しみであり、平安時代に「まつり」といえば、この葵祭のことを指すほど代表的なお祭りだったといいます。
その歴史の深さゆえに、葵祭はあの源氏物語にも登場します。その中でも有名なのが「車争い」と呼ばれるシーンです。そのあらすじはこんな物語です。
あるとき、葵祭に先立って行われていた行列に光源氏が参列することになりました。光源氏の正式な妻である葵の上は妊娠中ということもあり、はじめは見物を控えるつもりでした。しかし、お供の者たちの強い要望に押され、急遽、牛車で行列の見物に出かけることにします。ところが、急なことで場所取りができず、車を停める場所が見つかりません。そこで、身分が高い葵の上の一行は、身分の低そうな車を見つけ、場所を退かせようとします。その車に乗っていたのが、お忍びで見学に来ていた愛人の六条御息所でした。
葵の上も六条御息所の存在には気づいていましたが、若いお供の者たちを制御できません。ついに六条御息所の車は押しやられ、強引に立ち退かされてしまいました。六条御息所は悔しい思いを抱えながら帰ろうとしますが、あたりは混雑していて身動きがとれません。そうこうしているうちに「行列が来たぞ!」という声が上がり、行列に加わっている光源氏が目の前を通ります。しかし、押しやられてしまったその場所では、六条御息所は光源氏に気づいてもらうことすらできません。それどころか、光源氏が葵の上の車に気づいて、気を配る様子を目の当たりにします。六条御息所はますます自分を惨めに思って涙しますが、この晴れ舞台で輝く光源氏の姿を見ていなければ、もっと後悔していたことだろうと思わずにはいられないのでした──
現代の葵祭では、当時の華やかな行列が再現され、平安時代の形式を伝える衣装をまとった人や牛車が登場します。葵祭はその衣装や作法のすべてが当時の伝統を忠実に守り、現代に伝えられた総合芸術と言えるでしょう。そんな、葵祭を通して、平安時代の美意識、つまり当時の人たちが「美しい」と感じていた感覚に心を重ねてほしいと思います。
それぞれの行列の見どころは、実際の行列を見ながらガイドの続きを聞いてほしいと思います。京都で最も伝統のあるお祭りのひとつでもある葵祭を、当日もどうかお楽しみください。
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