新上五島町の中心部、青方。ここには、千年にわたって町を見守ってきた青方神社があります。

古くから伝わる資料によると、かつて高麗船の襲来があったとき、当時の領主がこの地で祈願し、難を逃れたことを機に、社を建てて神を祀ったとされます。祀られたのは、山王山と同じ神様。それは、信仰というより、生き延びるための切実な祈りだったのかもしれません。

以後、この社は「山王宮」と呼ばれ、向かい合うようにそびえる山王山と響き合うように、祈りの場として大切にされてきました。

海辺に立ち、神の山を仰ぎ見る。人々はその狭間に身を置き、祈りながら日々を生きていたのです。

そんな神社に、一風変わったものがあります。

参道の先で参拝者を迎えるのは、狛犬ではなく「狛牛」。その姿は、かつてこの地で農作業を支えた「島牛」を模したものといわれています。高麗から渡ってきたと伝わる小型の牛で、力強く、誠実に働く姿は人々に深く愛されました。

一説には、そんな島牛に疫病が流行した際、その無事を祈ってこの像が奉納されたとも伝わります。

そしてもうひとつ、この神社と切り離せないのが、青方湾の存在です。

湾の入口には小島が並び、天然の防波堤のように波を和らげます。なおかつ、奥へと入り込む穏やかな入り江は、古くから「風待ちの港」として重宝されてきました。

とくに遣唐使船の時代、この地は重要な寄港地でした。

使節団は、ここで水を汲み、食糧を整え、追い風を待ち続けたのです。風が吹かなければ出航は叶わず、時には本土へ引き返すしかないこともありました。

海を渡るとは、それほどまでに難しい挑戦だったのです。

最澄が唐へと旅立った804年。その前後にも、この地に寄港した記録がいくつか残されています。

たとえば、776年に風待ちの滞在があり、778年には嵐に遭いながらも第三船が帰着したという記録。

その寄港地は、現在の「三日ノ浦」と考えられています。その地名は遣唐使が三日間滞在したことに由来するともいわれています。近くには錦の御旗や濡れた帆を干したとされる「錦帆瀬(きんぽせ)」、さらには「唐崎」「唐人這(とうじんばえ)」「唐船島」など、唐の名を冠した地名が点在します。

短い地名に刻まれた雄大な歴史。それが、この湾の奥深さを物語っているのです。

この神社を訪れたあとは、その痕跡を辿ってみてください。

たとえば、舟の形をした岩「御船様(みふねさま)」は、遣唐使が祈りを込めて残したとされ、今なお地元の人々に信仰される場所。そこに膝をつき、手を合わせてみてください。目の前には、山王山の山頂が見えます。海を渡る者たちは、きっとこの場所で航海の無事を祈ったのでしょう。

ほかにも、遣唐使が悪天候で引き返した際、翌年の成功を願って建てたことにルーツをもつ「姫神社跡」。また、遣唐使船が綱を括ったと伝わる「ともじり石」など、祈りの痕跡は今もこの地に息づいています。

そうした人々の祈りのかたちの中で、のちの時代に伝わるものに、青方神社の「五島神楽」があります。

毎年秋の例祭で奉納されるこの神楽は、神への感謝と祈りを、舞いと音に託した芸能です。

とくに印象的なのが、フィナーレを飾る獅子舞です。8頭の獅子が境内を所狭しと駆け巡ります。

子どもたちは、驚き、泣き叫びながら逃げ回ります。けれども大人たちは、そんな子どもたちを笑いながら捕まえ、その頭を差し出します。

獅子に頭を噛んでもらえば、無病息災──。

そう信じられているからこそ、大人たちは微笑みながら、その加護をわが子にも授けようとするのです。

泣きながら、じたばたと抵抗しますが、その様子がまた可愛らしくて、大人たちはつい笑ってしまうのです。

獅子たちは、四方八方から人の波をかき分けながら進み、あちこちで「カカカカ」と噛む音を響かせます。

そして最後に、境内に残った一頭の獅子が、静かに退場していくと、拍手が湧き上がり、会場は大盛り上がりのフィナーレを迎えます。

そこには、昔も今も変わらない、祈りと笑いが交差する風景が広がっているのです。

神社とは、何を守る場所だったのか。

人々の命か。暮らしか。それとも、祈りそのものか。その問いの答えを、この地の人々はずっと前から知っていたのかもしれません。

祈るとは、生きること。神を祀るとは、命を見守ること。それは、現代を生きる私たちにも通じる、祈りのかたちです。

五島の祈りは、山と海とともにありました。神社はその狭間に立ち、祈りを受け止める防波堤。

五穀豊穣を、航海の安全を、家族の無事を祈る。それは、今を生きる私たちにも通じる、切実な願いです。

そして、神楽の舞が示すように、祈りは「ただ願う」だけのものではありません。

動き、奏で、笑い、舞う。体と心で表現する、命のエネルギーそのものなのです。

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