西の果てに浮かぶ、日島(ひのしま)。
かつては燃える炎の「火ノ島」とも呼ばれ、のろし台が設けられ、異国船の来航を知らせる役目を担っていたと伝えられています。
この最果ての島に、思わず言葉を失うような風景が広がっています。
それは、海岸線に沿って立ち並ぶ、70基を超える石塔群。
鎌倉時代から江戸時代にかけて築かれたとされるそれらの塔は、五輪塔、宝篋印塔、あるいは積み石だけの無名の塔まで。
形も大きさもさまざまですが、不思議とどれも、海に向かって静かに佇んでいます。
まるで、波の彼方に眠る誰かに祈りを捧げているかのように。
これらの石塔の多くは、地元の石ではありません。
熊本・阿蘇の凝灰岩、兵庫・六甲山の御影石、福井・若狭湾の日引石など、遠く離れた土地から運ばれてきたものです。
一体、誰が、何のために、そんなことをしたのでしょうか。
遣唐使の最後の派遣は894年。最澄が唐に旅立ってから、わずか90年後のことでした。
唐の情勢悪化により、菅原道真の提言で廃止され、日本と大陸との公式な交流は一時幕を閉じます。
しかし、航路が閉ざされたわけではありませんでした。
その後、12〜16世紀にかけては、むしろ民間による海上交易が盛んになります。
その担い手が、「倭寇(わこう)」と呼ばれた人々でした。
「倭寇」と聞くと、海賊のようなイメージを抱かれるかもしれません。
けれど実際は、船乗りや商人たちが時に正規のルートを補うように、日本・朝鮮・中国を結ぶ交易ネットワークを築いていたのです。
彼らは各地に交易品を届けたのち、空となった船に「バラスト(重し)」として石材を積み、この島に戻ってきました。
その石がこの地に運び込まれ、塔として積み上げられました。人々はそれを祈りのかたちへと変えていったのです。
つまり、この石塔群は、五島列島が大陸と日本列島をつなぐ「海の道」であり続けたことを物語っています。
石材の産地をたどれば、日本海ルート、瀬戸内ルートなど、さまざまな海上交易の道筋が浮かび上がってきます。
日島はまさに、祈りが漂着した「海の道の終着点」だったのです。
この地に塔を建てたのは、航海の無事を祈った船乗りであり、命を賭して海を渡った商人であり、仲間の死を悼んだ祈る者たち。
遭難した友のために墓を建て、自らも同じ運命をたどる覚悟で、生前供養の塔を残した。
それが、この最果ての地に築かれた石塔の、ひとつひとつの意味だったのです。
石たちは、風雨にさらされ、刻まれた文字もやがて読めなくなっていくでしょう。
けれど、そこに込められた願いは、今も確かに残されています。
帰らなかった者への悔いや無念。海に生き、海に還った仲間への祈り。
あるいは、いまも波の彼方に魂を漂わせている誰かを、石たちは、じっと待ち続けているのかもしれません。
日島の石塔群は、最果てでありながら、祈りの最前線でした。
この島に立ち、海の向こうを見つめた者たちの記憶に。どうか、あなたの祈りも、そっと重ねてみてください。