埋木舎は一見すると、質素な武家屋敷ですが、ここに井伊直弼は17歳から32歳になるまでの15年間を過ごしました。

井伊直弼は大変な文化人であり、この埋木舎で人格形成の基盤が作られたといっても過言ではありません。井伊直弼の人格形成に影響を与えた埋木舎に残された痕跡、そのエピソードを拾い集めてみましょう。この旅を終えたとき、あなたの頭の中にはどんな直弼像ができあがっているでしょうか。

まずは、井伊直弼の生涯をおさらいしてみましょう。直弼の年表をご覧ください。

直弼は1815年10月29日に第11代彦根藩主、井伊直中の十四男として彦根城二の丸槻御殿で生まれます。14番目ともなれば、藩主の後継者になることは望むべくもありません。直弼は5歳で母を亡くし、17歳で父を亡くすと、藩のしきたりによって、5歳年下の弟、直恭とこの屋敷で暮らすことになります。その暮らしは、決して贅沢なものではありません。藩主の子供が住むにしては質素な屋敷で、中流武士よりも質素な暮らしでした。

とはいえ、この屋敷はあくまで仮住まい。時がくれば、有力な藩主の養子になったりお寺の住職になって巣立っていくことが慣例でした。

あるとき、その日がやってきます。延岡藩の養子縁組のため、直弼は弟と一緒に江戸に面接に向かいます。直弼はてっきり自分が選ばれると思い、「この質素な生活ともお別れだ」と送別会を開いていたぐらいなのですが、養子に選ばれたのは弟の直恭のほうでした。

「世の中をよそに見つつも埋もれ木の埋もれておらむ心なき身は」

失意のうちに帰ってきた直弼は、この屋敷を「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けます。そして、「今はまるで埋もれ木のような目立たない存在だが、おれはこのまま埋もれてなるものか」と一念発起。それからの直弼は「4時間寝れば事足りる」と、寝る間を惜しんで勉強に励んだといいます。

それから32歳になるまで、実に15年もの間、直弼は埋木舎で過ごすことになります。もはや、このまま屋敷に根を張ることになるかと思いきや、運命はどう転ぶかわからないものです。

急遽、兄である藩主直亮のお世継ぎの直元が38歳で早逝し、直亮の弟の直弼が代わりに直亮の養嗣子となり、埋木舎を出て江戸で暮らすことになります。しばらくするとその兄も亡くなり、直弼は35歳で第13代の彦根藩主となります。

そのとき、直弼は兄が残した十五万両をただちに藩士や町民、農民等に分け与えました。そして、領内をくまなく歩き、領民の声を分け隔てなく聞き課題を解決していきます。

とはいえ、江戸時代の藩主は地元で暮らすわけにはいかず、江戸で将軍に仕えて過ごすのが通例です。直弼が藩主になった直後に黒船が来航。世の中は騒然とし、攘夷か、開国か。
つまり、外国と戦争して追い払うか、鎖国を解いて交易するか世論は真二つに分かれていました。

激動の最中、直弼は43歳にして大老に抜擢され、その直後日米修好通商条約を天皇の勅許を得ることなく締結しますが、尊王攘夷派との対立が顕在化し、安政の大獄を経て、46歳のとき、桜田門外の変で水戸藩の脱藩浪士に暗殺されることになります。

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