直弼は32歳で埋木舎を離れ、江戸で働きはじめます。当時の江戸は大変な時代でした。
直弼が藩主となった35歳のときにペリーが黒船を率いて浦賀に来航。開国を迫られた日本は、攘夷派と開国派に分かれて騒然とします。直弼は「鎖国をやめて世界と貿易し、各国と平和に国交する事こそ天下の大道である」と開国を主張。開港にふさわしい場所として横浜を提案したのも直弼でした。
そして、43歳で大老に就任した直弼は「日米修好通商条約」を締結。直弼はアメリカと戦争になれば必ず負け、植民地となり、子孫まで苦しい生活を強いることを見通していました。まさに埋木舎で培った「保剣」の精神です。
しかし、ひとつ問題がありました。それが天皇の承諾の有無です。直弼自身は天皇の承諾を得てから条約を締結するつもりでしたが、いつ大砲が打たれ、戦争の火蓋が切られるかわからない、そんな切迫した事態です。ついに天皇の承諾を待ちきれずして条約を締結したのです。
この直弼の決断に対し、攘夷派は不満の声をつのらせ、抗議をしますが、直弼は幕府の政策に反する、不満分子を粛清していきます。これをのちに(明治維新以降)「安政の大獄」と呼びます。
これにより、弾圧の象徴として恨みを買った直弼は不満分子から命を狙われます。部下からは直弼の警護を厚くするように進言がありますが、直弼は幕府の大老が噂程度で警護を強化するのは及び腰と捉えられると部下の提案を一蹴します。
万延元年3月3日、当日も直弼襲撃の投げ文が彦根藩邸に投げ込まれ直弼はそれに目を通しますが、予定通り上屋敷を出て江戸城に向かいます。雪が降りしきる中、水戸藩の脱藩浪士他に桜田門の目の前で襲撃され、46歳で憤死します。
彼は居合の達人でしたが、最初に水戸藩の脱藩浪士にピストルで膝を撃ち抜かれており、籠の中で身動きが取れず、最終的には薩摩藩脱藩浪士の有村治左ヱ門に駕籠から引きずり出され首を討たれます。
駕籠の中で死を目前にした井伊直弼は最後の瞬間に何を想ったのでしょう。
直弼は、死の前日に次のような歌を詠んでいます。
「咲きかけし たけき心の 花ふさは ちりてぞいとど 香の匂ひぬる」
直弼は、自分の死期を悟っていたのかもしれません。そして、「自分がいなくなっても開国という決断が日本の未来を強く明るいものにする」という願いが込められているようにも感じます。
もしも、直弼があの条約を結んでいなければ、日本はどうなっていたのでしょう。その世界観を想像してみてほしいと思います。