毎朝6時半。
神社のそばに暮らす人々が、今日も変わらぬ日課で手を合わせます。
掃き清め、供え物をし、「きげんよう、働けますように」と祈る。
それは商売繁盛の願掛けであると同時に、隣人と交わすささやかな朝のあいさつでもあります。

陶器神社は、丹波焼のはじまりの人とされる「風呂藪惣太郎」を祀る神社です。
10軒ほどの窯元が当番制で守り続けるこの場所は、まさに“焼きもののまち”の信仰のよりどころ。

焼き物づくりには、どうしても人の力を超えた何かが介在します。
いくら経験を重ねても、いくら技術が進んでも、
焼くという最後の工程には「神様にゆだねるしかない」という瞬間があるのです。

窯の位置、薪の湿り気、火加減、気圧や風向き。
どれもがわずかにズレるだけで、器は全く違う姿に焼き上がります。
屋根の上にカラスが木の実を落とした音が、器の割れる音に聞こえるほど、
張り詰めた静けさのなかで、職人はただ、炎の機嫌に寄り添います。

そんな極限の焼成を終え、想像以上の出来に出会えたとき──
器は、もはや作品ではなく、ひとつの“いのち”のように感じられるのだといいます。
だからこそ、無事に焼けること、そして誰かのもとに届くことを、
今も昔も、祈らずにはいられないのです。

暮らしの中にある祈り。
作ることの中にある祈り。
失敗と向き合いながら、それでも前を向くための祈り──。

窯元の器にふれる機会があれば、
その奥に、こうした見えない祈りの重なりを感じてみてください。

それはきっと、土と火だけでは語りきれない「丹波焼の風景」を教えてくれるはずです。

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