目の前にたたずむ堅牢な石組。これは、島津斉彬が建設させた反射炉の遺構です。
反射炉とは、アーチ状の炉で熱と炎を反射させ、1500℃以上の高温で鉄を溶かす施設です。幕末の日本では、鉄製の大砲を鋳造するために導入が図られました。かつてはこの石組の上に炉や煙突が20mほどの高さまでそびえたっていたのです。
斉彬がこの反射炉を築いた当時、日本は未だ鎖国体制下にあり、反射炉のような西洋の技術を取り入れることは容易ではありませんでした。それでも斉彬は諦めず、輸入したオランダ語の書物だけを頼りに研究を進め、建造に着手します。建造は失敗の連続でしたが、挫折しそうになる家臣たちに斉彬は、「西洋人も人なり、薩摩人も人なり」と激励したと言います。
現在残っている石組は、実は2号炉のものです。最初に築かれた1号炉では、湿気で炉内の温度が十分に上がらなかったり、本体が傾いたりするといった問題が発生していました。2号炉はその教訓を踏まえて築かれたものです。このため現在まで残る基礎の石組は、お城の石垣に用いる建築技術を活かして堅牢に築かれ、さらに湿気対策の通気口を設ける工夫もなされています。また、建築材である耐火煉瓦の製造には、薩摩焼の陶工たちが動員されました。このように、試行錯誤を繰り返しながら、西洋の知識と日本の技術を融合させたことで実現したのが、集成館の反射炉だったのです。