反射炉は、アーチ状の炉で熱と炎を反射させ、1,500℃以上の高温で銑鉄を溶かす施設です。日本では19世紀半ばに、主に鉄製大砲の鋳造を目的として導入されました。
薩摩藩では嘉永4年(1851)、28代島津斉彬の主導により反射炉の研究が始まりました。オランダ軍人ヒュゲニンが著した書籍『ルイク国立鋳砲所における鋳造法』を佐賀藩から譲り受け、その知識を基に、薩摩藩の人々の独力で建設が進められました。
嘉永5年(1852)には、仙巌園の隣接地において1号炉が完成しましたが、煙突が傾くといった問題が発生しました。その失敗を踏まえ、安政4年(1857)に建設されたのが2号炉です。
2号炉には、薩摩藩ならではの工夫が施されました。高さ約20メートルの煙突を支える石組には、溶結凝灰岩が用いられ、「かみそりの刃1枚も通さない」といわれるほど精巧な城郭建築の技術が取り入れられています。また、耐火レンガの製造には薩摩焼の技術が活用されるなど、西洋の知識と日本の在来技術が融合された構造となっています。
文久3年(1863)の薩英戦争後に反射炉は取り壊されましたが、残された石組は日本の近代化の歴史を物語る重要な遺構であるため、平成27年(2015)に世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産として登録されています。