※地下遺構は現在公開していません。

安政元年(1854)、28代島津斉彬の命により、日本で初めて築かれた洋式溶鉱炉の跡地です。溶鉱炉とは、鉄鉱石や砂鉄を溶かして銑鉄を生産する施設のことをさします。

19世紀半ば、日本でも鉄製砲の鋳造がおこなわれるようになりますが、多くの藩では原料に銑鉄の代わりとして和鉄を主に使用していました。しかし、薩摩藩の島津斉彬は、和鉄は品質にばらつきがあるため、砲の鋳造には不向きであると判断し、オランダ軍人ヒュゲニンの著書『ルイク国立鋳砲所における鋳造法』を参考にして洋式溶鉱炉の建設に踏み切りました。

建設地は、現在の鶴嶺神社境内・鎮像殿付近と推定されています。安政4年(1857)に集成館を視察した佐賀藩士・千住大之助の記録によれば、その溶鉱炉は高さ22尺(約6.7メートル)、横幅11尺(約3.3メートル)の規模だったとされています。

原料には、頴娃(えい)や志布志の砂鉄、吉田産(現在の宮崎県えびの市)の鉄鉱石が使用されました。炉への送風には、水車ふいごの技術を応用するなど、日本在来の知識や技術も活かされていました。

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