夜の道後公園を歩いていると、木々の影の向こうに、はるか昔からある「丘」の気配が漂ってきます。
この先に広がる丘こそ、中世のおよそ二五〇年にわたり伊予の国を治めた武士たちの本拠地だった場所です。
その名は「湯築城(ゆづきじょう)」。
古い文献では、月と書いて「湯月城(ゆづきじょう)」などとも記されました。
湯築城を築いたのは伊予の豪族「河野(こうの)氏」です。
もともとは、道後ではなく、もう少し北の「河野郷(松山市北条地区)」という海辺の地域を本拠地にしていました。
河野氏の特徴は、水軍を率いて「海」に強かったこと。
源平合戦では船団を率いて活躍し、元(モンゴル)軍が襲来した「元寇」でも奮戦。
伊予の有力な武士としての地位を固めていきました。
やがて河野氏は、政治の中心をこの道後の丘へと移します。
当時の伊予では、現在の松山市街地はまだ沼地が広がるだけの場所でした。
いっぽう道後は、古くからの温泉地として知られ、寺院が建ち、市が立ち、人びとが集まる「経済と文化の中心地」でした。
温泉、寺、市、そして海へとつながる川や道──。
平野を一望できるこの丘こそ、新たな本拠地にふさわしかったのです。
時は、一四世紀半ば、河野通盛(みちもり)という武将によって、この丘に拠点が築かれました。
湯築城は、いまで言う「平山城(ひらやまじろ)」に分類されます。
平地からゆるやかに立ち上がる丘全体を城として利用し、やがて周りをぐるりと二重の堀で囲み、内側には土を盛り上げた土塁(どるい)を築く。
その内側に、武士たちの屋敷や倉庫、井戸などを配置する──。
こうした「二重の堀と土塁、城内に広い居住区を持つ構造」は、のちの時代に全国でつくられる城の形を、一足早く先取りしていたことが発掘調査でわかっています。
あなたの目の前にある武家屋敷は、その調査にもとづいて復元されたもの。
土塀のつらなり、屋根板のかさなり、軒下に吊された松明の光……。
夜のしじまに浮かぶその姿に、かつてこの場所を行き交った人びとも見たであろう景色と息づかいがふと重なります。
さて、ここで「伊佐爾波(いさにわ)」という名に関わる物語が再び姿を現します。
湯築城が築かれる前、この丘には「伊佐爾波神社」という神社があり、「湯月八幡宮」とも、呼ばれていました。
その場所は、現在の道後公園内にある「岩崎神社」のあたりだったとも言われています。
しかし、河野通盛がこの地に湯築城を築くとき、城づくりを優先するため、伊佐爾波神社は神社は現在の場所──向かいの山の上へと移されました。
もちろん、これも言い伝えで史実とは言い切れません。
けれど、この“不確かさ”も、道後の歴史をいろどる一つなのです。
場所の記憶が霧のなかに揺らぎ、土地の名前が時代をこえて静かに残り続ける──だからこそ、夜のしじまに浮かぶこの丘の影に、伊佐爾波という名のロマンを、そっと重ねることができるのです。
湯築城はといえば、南北朝、室町、そして戦国へ──。
時代が進むにつれ、この城をとりまく情勢は、次第にきびしくなっていきます。
周辺の大名たちは、勢力を広げようとたえず戦いをくり返し、河野氏も、なんとか伊予国を守ろうと奮闘しました。
そして戦国時代の終わりが近づいたころ、ついに決定的なできごとが起こります。
豊臣秀吉による四国を平定するための軍勢が、ここ湯築城にも迫ってきたのです。
このときの城主は、河野通直(みちなお)。
通盛から数えて十代ほどあとの当主です。
城は約一か月間にわたって攻撃に耐え続けましたが、通直はついに城を明け渡すことを決断します。
こうして、二五〇年近くつづいた「河野氏の時代の湯築城」は幕を閉じ、歴史の表舞台から姿を消していきました。
その後、湯築城には新しい城主がやってきますが、彼らは別の場所に本拠を移してしまいます。
江戸時代になり、松山城が築かれるころには、湯築城の石垣が運ばれたとも伝えられ、この丘は竹やぶにおおわれていきました。
いま、あなたが歩いている道後公園は、そんな激しい時代の移り変わりを、何百年も見つめてきた場所です。
丘の頂上へ続く坂道を上ってみましょう。
上へ上へと歩くほどに、街灯が遠ざかり、風の音が近づいてくる。
視界から現代が消えていくこの感覚は、夜だからこそ味わえる“非日常”です。
この丘が本当に「伊佐爾波の丘」だったのかどうかはわかりません。
けれど、古代から中世へと、温泉と祈りと政治の中心として歩んできたこの場所は、たしかに「伊予のまちの中心」のひとつだったと言えるでしょう。
次のスポットでは、この丘がいちど竹やぶと化し、やがて「道後公園」として再び目を覚ましていく近現代の物語、そして「伊佐庭如矢(いさにわゆきや)」という人物について、夜景のひろがる展望台から、お話ししていきます。