11世紀のバリ島に、一人の女がいました。
チャロン・アラン。かつては王の后であり、魔法の才を持つ女でした。

しかし夫である王は、彼女が魔法使いであることに気づき、森へと追放してしまいます。
やがて夫が死に、チャロン・アランは未亡人になりました。

森での暮らしの中で、彼女は一人の娘を授かりました。
娘は美しく成長しました。
その娘に、誰も求婚しませんでした。魔女の娘だと恐れられていたからです。

——なぜ、誰も来ないのか。私の娘は、こんなにも美しいのに。

怒りが、悲しみが、やがて憎しみに変わりました。
チャロン・アランは弟子の魔女たちを呼び集め、ジャワの王国に悪病をはやらせ始めます。

——息子よ。お前の王国を、滅ぼしてやろう。

村に病が広がり、人々は死んでいきました。追い詰められた息子は、高僧に助けを求めます。
激しい戦いの末、高僧は呪文の力でチャロン・アランを滅ぼしました。

——これが、チャロン・アラン劇のあらすじです。

劇中、チャロン・アランは恐ろしい魔女の姿へと変貌します。それが、ランダです。 ランダは劇の終盤で滅ぼされます。けれど、ランダという存在は別の舞台へと受け継がれていきます。バロン劇です。

目の前の仮面を見てください。これが、バロン劇で使われる二つの仮面です。

向かって左、金色の顔にどこか愛嬌のある獅子の面——聖獣バロン。
その隣、滝のような長い黒髪。縦に伸びる火焔の舌が不気味な魔女——ランダ。

バロンは、人々を守る力の象徴。
一方ランダは、病や死、恐れ、災厄をもたらす力として畏れられてきました。

けれど、ここで面白いことがあります。
バリの人々は、ランダを単なる「悪」として切り捨てません。

ランダは恐ろしい存在です。
病をもたらし、人を狂わせ、死へ導くこともある。

けれど同時に、時には病を治し、人を守る力を持つとも考えられてきました。

恐れであり、救いでもある。
破壊であり、再生でもある。

矛盾しているようですが、
バリの世界では、それが矛盾ではありません。

人の心にも、同じことが言えるのかもしれません。
優しさもある。怒りもある。
慈しみもある。嫉妬もある。

光だけで生きることはできない。
影を、完全に消すこともできない。

だからバロン劇では、決着がつきません。
そのせめぎ合いそのものが、世界の姿だからです。

バロンとランダの戦いは、遠い島の神話ではありません。
それは、人間の内側で、今も続いているせめぎ合いなのかもしれません。


音源提供:稲葉さやか

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