なぜ人は、石に祈るのでしょう。

木なら、わかる気がします。芽を出し、枝を伸ばし、花を咲かせる。そこに命を感じることができます。けれど、石は動きません。声も出さない。育っているようにも見えない。それなのに人間は、古くから石に特別な意味を与えてきました。

奈良県に、大神神社という古い神社があります。この神社には、本殿がありません。拝殿の向こうにそびえる三輪山。その山そのものを神聖な存在として祀ってきたからです。山中には「磐座」と呼ばれる岩が点在しています。

磐座。「磐」は岩、「座」は座る場所。神を迎える場所、あるいは神が鎮まる場所として、特別な岩に祈りが捧げられてきました。人間が石を運び、特別な場所を「つくる」のではない。すでにそこにある岩そのものに、神聖なものを感じてきたのです。

では、なぜ石だったのでしょう。

ひとつ考えられるのは、その変わらなさです。人は生まれ、年をとり、やがて死んでいきます。木も芽吹き、成長し、いつか朽ちていきます。けれど、人間の時間から見れば、巨大な岩はほとんど姿を変えません。

自分が生まれるずっと前から、そこにある。自分がいなくなったあとも、おそらくそこにある。そんな存在を前にしたとき、人はそこに、自分たちとは違う時間が流れていることを感じたのかもしれません。

白石島にも、そんな巨岩があちこちに姿を現します。山には、大玉岩。開龍寺のお大師堂は、巨大な岩の下に寄り添うように建っています。そして、国の天然記念物にも指定されている鎧岩。その表面には、まるで鎧を重ねたような、不思議な模様が刻まれています。

石は、何も語りません。それでも人は、その沈黙の中に意味を見つけ、物語をつくり、祈りを捧げてきました。

では、入口で触れた、あの石はどうでしょう。今は手で触れられるほどの石です。けれど、あの石にも、切り出される前の姿がありました。人間よりもはるかに長い時間、どこかの島の山で、巨大な岩の一部としてそこにあったのです。

その石は、どんな風景の中にあったのでしょう。

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