──現在の「南門」は興福寺から移したもの。しかし、奈良時代のこの場所には大安寺の「南大門」があった。その大きさは平城宮の朱雀門と同じ。想像してみよう。もしもこの場所に朱雀門があったなら。それだけで、かつての大安寺のスケールが感じられるのではないだろうか。実は、門の手前にある石の階段は当時の巨大な基壇を復元したもの。現在の門に比べて基壇が大きく感じられるのはそのためだ。5段しかない階段も、その地下には6段、7段、8段と、さらなる階段が埋まっている──さらに地下には地面を固めるための巨大な土壇も眠っている──「凝灰岩」を使ったこれらの基壇は、きらきらと輝いて綺麗だったからだろう。奈良時代では最も格式が高いものとされている。
奈良時代のはじめ、大安寺は平城京の中でもいちばん大きな寺だった。お坊さんの数だけでも約1,000人。世話係などを含めると2,000人、いや3,000人もの人たちが大安寺の中にいたはずだ。そこで何が行われていたのか。仏教を中心とした「学問」である。当時のお坊さんは学生であり研究者でもあった。そのため、音楽、彫刻、医学など、様々な専門家が集まる場所でもあったのだ。それも日本全国だけではない。海外からもたくさんのお坊さんが大安寺にやってきた。
たとえば、ベトナム人の「仏哲」。東南アジアの音楽を日本ではじめて披露した人物である。奈良時代に日本を訪れた仏哲はたくさんの式典で演奏会を行ってきたが、彼を中心とした音楽隊は大安寺で練習を重ね、若手に対する指導を行った。その教えは現在の雅楽に続いている。
つぎに、インド人の「菩提僊那」。そもそも仏教はインドで生まれたもの。それが中国に伝わり、中国風に変化した仏教を日本は受け入れていた。しかし、経典も中国語に翻訳された時点でニュアンスが変化する。そこで、インド人である菩提僊那は、いわばインド直輸入の仏教を大安寺で教えていた。
中国からも「道璿」という人物が来ている。道璿は「戒律」の専門家。戒律といえば「鑑真」がもたらしたと言われているが、そう単純な話ではない。実は、鑑真より20年前のこの時代に道璿が戒律を教え、その地盤を築いていた。その上で鑑真が来日したことで急速に広まったのだ。
仏哲、菩提僊那、道璿。彼らは奈良の大仏の立役者でもある。その完成を祝う「大仏開眼」という式典では、仏哲はライブを披露、菩提僊那は大仏に眼(まなこ)を描き入れ、道璿は呪願師として儀式を先導した。その日は、大安寺で教えてきた授業の集大成だったのかもしれない。
なぜ、これほどの重要人物が揃いも揃って大安寺に滞在したのか。理由はやはり、その大きさである。外国から来たお客さんに「日本のいいところ」を見せようとしたときに、どこに連れて行くか。国を代表するいちばんの寺院が大安寺だった。そして、もうひとつ。大安寺は巨大な「僧房」を持っていたからだ。僧房とは、お坊さんが泊まる寄宿舎のようなもの。外国から来たお客さんも、日本のお坊さんたちも、泊まりこみで交流できるサロンであったのだ。