今から1000年以上前、国家に反乱を起こした「平将門」という人物がいた。国家は軍隊を送ると同時に、とあるお坊さんに京都で大切にされていた尊像を託した。この仏像こそが「不動明王」である。そのお坊さんは不動明王像を持って京都から成田にやってきた。そして、「護摩」という儀式を通してお祈りをした。すると、お祈りが終わる21日目にピタリと戦乱が鎮まった。不動明王のおかげで国家は反乱軍に勝てたのかもしれない。そこで、新たに勝つという意味の「新勝寺」という名前を与えられ、不動明王像を安置する建物が作られることになった。
それから、数百年の月日が流れ、何度か移動をしたのちに、現在の「大本堂」がある場所に落ち着いた不動明王。そのころの成田は田んぼしかない農村であり、新勝寺は村人たちがお祈りをするだけの小さなお寺でしかなかった。それが一変するのは、およそ300年前の江戸時代。新勝寺の住職たちは、地域内外の協力者を得ながら新しい本堂を完成させた。その借金を返すために、大都市である江戸(=のちの東京)への売り込みをはじめたのだ。そのための手段が「出開帳」である。
出開帳とは、成田山新勝寺で最も大切にされてきた「不動明王像」を江戸まで持ち出して公開すること。現在でいえば、ルーブル美術館の「モナ・リザ」を運び出すようなものかもしれない。神輿に乗ってパレードのようにして江戸の町にやってきた不動明王は、たちまち評判を呼び、ひとめ見たいと多くの人が押し寄せた。そして、たった一度の出開帳で、本堂が建つほどのお金が集まった。そんな出開帳を江戸時代だけで11回もおこなったという。
それだけではない。この出開帳によって、不動明王の聖地である「新勝寺に行ってみたい」というムーブメントが生まれたのである。時代は豊かになり、庶民でも旅ができる余裕があった。そこで、江戸から成田まで歩いて往復3泊4日。その道のりを楽しみながら新勝寺を訪れる人があらわれたのだ。そして、そんな旅人たちに応えるように「飲食店」が生まれ、「宿屋」が生まれ、「土産物屋」が生まれ、表参道が賑わっていったのである。
そして、150年前の明治時代になると東京から成田までの鉄道が開通する。“京成”電鉄とは東“京”と“成”田を結ぶもの。成田空港ができるより遥か昔からあったもので、この鉄道の誘致を先導したのも成田山新勝寺だといわれている。鉄道によって日帰りで来られるようになった新勝寺には、ますます多くの人が押し寄せるようになった。そして、爆発的に増え続ける参拝客にあわせて、新勝寺も、表参道も、成長し続けているのであった。