日本の伝統演劇「歌舞伎」といえば、顔面を赤や黒で化粧する「隈取り」や、その顔でグッと睨むような仕草をする「見得」が思い浮かぶ。実は、これらの姿は「不動明王」の姿だとする説がある。

江戸時代になって、新勝寺を訪れる人が急増した理由に「出開帳」があると先に述べた。しかし、いかに霊験あらたかな不動明王像とはいえ、江戸時代の人にとっては昔の話。農村の小さな寺に過ぎなかった新勝寺から持ち出しても、見向きもされないと考えるのが普通であろう。

しかし、たった一度の出開帳にして、新しい本堂(光明堂)が建つほどの資金が集まった。それはなぜか。出開帳の日にあわせて、市川団十郎という歌舞伎役者が不動明王にまつわる歌舞伎の演目を披露したからだ。いわば、それが広告塔になったのである。

歌舞伎役者「市川団十郎」といえば、日本人なら誰でも知っている。その名前は代が変わっても受け継がれるため、二代目団十郎、三代目団十郎と、現代まで十数代に渡って「市川団十郎」を襲名している。その初代、つまり、創始者となる人物の父親が成田出身であった。

初代団十郎は江戸で育ち、幼いころから歌舞伎に接していた。そして、デビュー以来、輝やかしいスター街道をひた走る。しかし、団十郎にはひとつの悩みがあった。跡継ぎにするべき子宝に恵まれないことだった。そこで、故郷である成田の新勝寺、その不動明王像の前で子供が生まれるようにお祈りをした。すると、たちまち子供を授かったのだ。驚いた団十郎は、その体験談を歌舞伎の演目に仕立てあげた。

当時の団十郎は、ジョニー・デップのような大スターである。団十郎が演じる不動明王を観るために大勢の人が押し寄せた。そのタイミングで江戸で「出開帳」をしていた不動明王像にもたくさんの人が集まり、江戸中の人に不動明王のことが知れ渡ることになる。そして、「聖地を見てみたい」と新勝寺を訪れる人が急増したのである。

その後、二代目、三代目と代が変わるにつれて、団十郎と新勝寺との関係性は薄れるどころか強くなり、出開帳があるたびに不動明王にまつわる歌舞伎を公演し続けた。七代目団十郎にいたっては、大金をもって「額堂」を寄進した。「せったい所」と書かれた看板の脇には「七代目団十郎」の署名があり、団十郎が自らお茶を出していたこともあったという。

この七代目は先代が早死にしたことで、10歳にして「団十郎」の名を継ぐことになった苦労人。当時はまだ歌舞伎役者としての芸もつたなく、嘲笑されることもあったという。しかし、それをバネにして稀代の歌舞伎役者となった。「足が弱い人のために」と成田公演もおこない、人が押し寄せるあまり、劇場の床が抜けたという記録も残っている。

しかし、そんな七代目にもひとつの悩みがあった。女の子ばかりで跡継ぎにするべき男の子が生まれないことだった。ただ、これもまた新勝寺でお祈りするとたちまち男の子を授かったという。市川家と新勝寺の絆がますます強くなったことは言うまでもない。

もちろん、現代の市川家も大スター。数百年の時を超えて不動明王を演じ続けている。

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