──護佐丸は「忠実な臣下」であったことに変わりはないが、裏を返せば金丸に利用されたのかもしれない。

正しい歴史なんて、どこにも存在しない。

ぼくは、旅を続けるにつれてその思いが強くなるのを感じている。

中城グスクのように、一切の歴史資料が失われた場所はもちろん、沖縄でいえば「中山世鑑」「琉球国由来記」「球陽」といった「正史」とされる歴史書さえ、当時の施政者によって語られる歴史にすぎない。現代の公文書ですら、政治家や官僚によって簡単に書き換えられることは、誰もが知るところであろう。

自分自身の歴史にも似たようなところはあるかもしれない。たとえば、なぜ旅に出たのか? なぜ会社を辞めたのか? あるいは、なぜその人を好きになったのか? 理由はひとつではなかったはずだ。矛盾する理由や脈略のない理由。いろんな理由がタイミングとして重なって、最終的には「勢い」で決断した結果であったりする。

それなのに、後から誰かに理由を聞かれるうちに、そして自らが何度も語っていくうちに、理由として語りやすいように、都合がいいようにデフォルメされた「物語」ができあがっていく。それはフィクションではないにせよ、細部が抜け落ちている。

歴史書や教科書に書かれている歴史もまた同じではないかと思うのだ。

──だからこそ、人は自分が信じる物語を自分で見つけなくてはならない。

ぼくに中城グスクを案内してくれた先生は、颯爽と軽トラであらわれた。その場の話の流れで急遽、軽トラに乗せてもらうことになったのだが、先生は助手席に山積みだった荷物をぽいぽいっと荷台に放り込んで、ぼくが座るスペースを空けてくれた。そこにあったのは「山」に入るための様々な道具や作業着。普段から暇があれば誰も行かないような山に行って史跡を探しているのだという。先生はこんなことを言っていた。

「わたしなんかは、観光地に行くときも正面から見ないんです。正規のルートを通らないんですね。正面から見てわかることはパンフレットにも書いてあります。でも、裏っかわの誰も開けないような納屋をあけたりしていると、あまり知られていない秘密が見つかったりする。誰かに沖縄を案内するときもそう。物事は、裏側を話したほうがおもしろいじゃないですか」

そう言いながら、「sideB」の物語を聞かせてくれたのだ。ぼくは事前に中城グスクにまつわる資料を読み漁っていたが、どの本に書いてあるのも「sideA」の物語。いわゆる「正史」なのだろう。しかし、先生はその裏側にある物語を「これが、わたしの信じる真実です」と語ってくれた。「〜といわれている」「という説もある」などと語尾を濁すことはなく、「実は〜なんです」「間違いなく〜です」と断定しながら聞かせてくれた。そのことが、ぼくにはとても気持ちがよかった。

もちろん、先生が信じる物語が正しいといえる証拠はない。しかし、正史が正しいといえる証拠もないのだ。少なくとも先生は、正史をはじめとするありとあらゆる資料を読み漁り、自身のフィールドワークを含めてとことんまで突き詰めた結果、「これが、わたしの信じる真実です」という物語に辿り着いたのである。

それを断定する自由は、ガイドにだってあっていいはずだ。それを聞いて、何をどこまで信じるかはあなた次第。人は自分が信じる物語を自分で見つけなくてはならないのだから。







ON THE TRIP 編集部
文章:志賀章人
写真:本間寛
声:幸地松正







※このガイドは、取材や資料に基づいて作っていますが、ぼくたち ON THE TRIP の解釈も含まれています。専門家により諸説が異なる場合がありますが、真実は自らの旅で発見してください。

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