扁額を見てほしい。富士山の「冨」の字に「点」がない。その昔、「富士山の上に人が立ってはいけない」といわれ、麓から見上げて「遥拝」する山だった──。

古くから「神さまがいる」と畏れられてきた富士山だが、日本に仏教が伝わると「仏さまもいる」と考えられるようになる。そして、仏さまの世界に近づこうと山で修行をする者があらわれると、修行者に連れられて一般の人も富士山に登りはじめる。そのころは少人数による登山であり信仰熱心な人のみに限られていた。が、江戸時代になるとより多くの人が登るようになり、各地域ごとに富士登山のためのグループがつくられた。これが「富士講」である。

彼らは関東一円からやってきた。それぞれの地元から歩いてきて富士山にも登るとなれば、往復で1週間〜1ヶ月はかかる。かなりの金額が必要であり、富士山は一生に一度でも登れたら幸運なもの。富士講の「講」とはグループのことであり、富士講のメンバーは数年〜十数年をかけて少しずつお金を積み立てた。そして、くじ引きなどをして選ばれた代表者がグループを代表して登山していた。

彼らが最初に目指したのは富士山信仰の拠点である上吉田の町。そのランドマークが金鳥居であり、まず最初に金鳥居をくぐることで富士山信仰の世界に一歩、足を踏み入れることになっていた。富士山に向かって伸びる参道には「宿場」がずらりと並んでいた。しかし、ただの宿場町ではない。宿の主は「御師」と呼ばれる神主で、富士講の人たちは普段からお世話になっている「御師の家」に泊まることになっていた。

富士講の人たちは何を求めてここに来たのか。彼らは皆一様に「白装束」に身を包んでいた。白装束とは、死装束。神仏の世界である富士山に登るということは、この世ではない「あの世」に行くということ。一度死んで生まれ変わることで、病気が治り、願いが叶うと信じられていたのだ。

Next Contents

Select language