「麓から登山」の道のりは長い。五合目のバス停まで寄り道せずに歩いても5時間はかかるはずだ。

この先のガイドの使い方としては、「01」「02」「03」と順番にルートを辿りながら聞いてほしい。「♪」マークのガイドに関しては、次のスポットに向かう途中で歩きながら聞いてほしいと思っている(「★」マークの寄り道は“読むだけ”に。道に迷ったり、最終バスに間に合わなかったりする可能性がある)。

ここでは、この道を舞台にした小説の一説を紹介したい。当時を想像する手がかりにしてほしい。

数台の車が並んで通れそうな幅広い道の両側に大きな門構えの家だけが軒を連ねていた。
元禄二年(1689年)夏のことである。
吉田は白衣、白股引、白脚絆の白づくめの道者(富士山に信仰登山する人)が溢れていた。ここは町のようであったが、商家らしい家は一軒も見当らなかった。
宿場でもなかった。宿場と呼ぶにしては、宿場特有なあの華やかな喧騒の中にただよう一抹の哀愁はどこにも感じられなかった。宿場のように客の袖を引こうとする女たちの姿や彼女等の呼び声がないかわりに、中央道まで出て来て、道者や一般登山者たちにお泊りはどこかとしつっこく訊く法被姿の男たちがいた。宿坊の客引きであった。
多くの白装束の道者たちは団体を組んでいた。笠や上衣の襟に団体の名が染め抜いてあった。そのような団体の多くは、予め宿坊が決っていた。宿坊からの出迎えが二里も三里も先まで出るし、いざ団体が到着するとなると、御師自らが、紋付、袴に帯刀といういでたちで吉田の町はずれまで迎えに出た。
御師とは富士信仰において特に発展した名称で、神職と宿坊を兼業している者のことである。浅間神社の神主に隷属して神祇を行う者であったが、室町時代の頃から宿坊も兼ねるようになった。御師と道者との関係は寺と檀家の関係に似かよっていた。世襲であった。苗字帯刀を許されていた。
道者は鈴をさげていた。道者の一団が通り過ぎるとその鈴の音で蝉の声が一時聞えなくなるほどであった。
──中略──
道者は白一色だったが、一般登山者の服装はまちまちだった。旅支度でふらりとやって来たような人もあれば、吉田で登山の支度をととのえて、出来得るならば頂上まで登ってみようという者もいた。武士の一団は旅姿のままだった。
一般登山者は道者の数に比較すると問題ではなかった。それでも、ざっと見渡したところ三分の一は一般の登山客だった。
宿坊から道に出て来ている法被姿の客引きの目当てはどうやら、一般登山客のようであった。道者の多くははじめっから宿は決っていた。一度決った宿坊は年が変ってもよほどのことがないかぎり変更しなかった。
法被姿の男たちはそのことを充分知っていた。彼らは一般登山客と見ると近づいて行って自分たちの宿坊に誘った。初めての者はその法被姿の男たちに宿賃を交渉した。
「宿坊は旅籠ではございません。すべてはおぼしめしということになっております。お泊まりになったうえで、このぐらいが適当だと思うだけのものを置いて行っていただければ結構です。ただし、弁当代、金剛杖代、草鞋代、強力代なぞは実費を戴くことになっております」
法被姿の男は言った。旅籠ではないと言いながら、客引きに来ている矛盾をそのまま表面に出しながらも、彼等は、御師が経営するこの宿坊のあり方にいささかの誇りを感じているようであった。
「お客様、まずまず当坊へお出で下さいまし、悪いようにはいたしませぬ、なにからなにまで、お客様本位にやらせていただいております」

──続きは、新田次郎の小説「富士に死す」を読んでほしい。この旅を終えたあとに読んでみると、より味わい深いはずだ。

Next Contents

Select language