ここから「吉田口遊歩道」がはじまる。本来の登山道は舗装された道路のほうだと“されている”が、遊歩道のほうが昔の雰囲気を味わえる。ぜひ遊歩道を歩いてみてほしい。
ちなみに、登山道からも遊歩道からも少し外れたところに次の写真の道標が見つかっている。「右 たきぎとりみち、左 御山のぼりみち」と書かれているのだが、本当の登山道はここだったようだ。いや、もともと確かな歴史の道なんてないのかもしれない。毎年夏に山開きをする富士山は、そのたびに荒れた登山道を整備しなくてはならない。道は毎年のように変化していたと考えたほうが自然ではないだろうか。
──浅間神社から中ノ茶屋まで約3.5km──
さて、遊歩道を歩きながら富士山の神さまについての物語を聞いてほしい。
富士山に「神さまがいる」という信仰がいつはじまったかは定かではないが、古くは「浅間大神(あさまのおおかみ)」と呼ばれていたことがわかっている。その後、平安時代に仏教が広まると「浅間大菩薩(せんげんだいぼさつ)」と呼ばれるようになった。
そして、鎌倉時代には富士山の神さまは「かぐや姫」だといわれるようになる。竹から生まれたかぐや姫は、やがて帝の求婚を断って月に帰っていく。その最後の別れのとき、かぐや姫は帝に「不死の薬」を贈るのだ。しかし、帝は「かぐや姫のいない世界で不死になんの意味があろうか」と、不死の薬を最も天に近い場所で燃やしてくるよう命ずる。そして、たくさんの士(つわもの)どもが日本一高い山である富士山に登り、山頂で不死の薬を燃やした。活火山であった当時は、山頂からその煙が吹き出しているといわれ、たくさんの武士が登ったことから「士に富む=富士山」と呼ばれるようになった。と、考えられていた。
室町時代には、かぐや姫について、このような話も語られている。
富士山の麓にある竹林から生まれたかぐや姫は、おじいさんとおばあさんに拾われて大切に育てられた。美しく成長したかぐや姫は、町の有力者である男に見初められて仲睦まじく暮らしていた。しかし、それから年月が経ち、おじいさんとおばあさんが亡くなると、かぐや姫は男に告白する。「実は、私は富士山の仙女なのです。もう仙宮に帰らなくてはいけません」そして、そのまま姿を消してしまった。突然の別れを悲しんだ男は、富士山の山頂に向かう。しかし、かぐや姫はいない。火口を見下ろしてみると、立ち昇る煙の中にかぐや姫の姿がほのかに見えた。瞬間、男は火口に飛びこんだ。果たして、ふたりは再会できたのか。その後、ふたりは富士山の神さまとして共にあらわれたといわれている。
江戸時代になると、今度は「木花開耶姫(このはなさくやひめ)」だといわれるようになる。絶世の美女として知られる木花開耶姫にはこんな伝説がある。
あるとき、木花開耶姫は「美しいだけの女ではいけない」と思い悩んだ。そして、前人未到の富士山に一人で登ることを決めた。しかし、山の道のりは厳しく途中で方向を見失ってしまった。そのときである。3匹の猿があらわれて道案内をしてくれたのだ。おかげで山頂に到達できた木花開耶姫は、猿たちにお礼を言って「自分がここに来たことは誰にも知らせないでほしい」と口止めをした。すると、猿たちはそれぞれ目と耳と口をふさいで「見ざる、言わざる、聞かざる」の3つを約束した。安心した木花開耶姫は山頂でいちばん高い場所に行き、剣を突き立てた。その場所こそ「剣ヶ峰」だという。
木花開耶姫の物語はほかにもある。
ある日、「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」という神さまが下界に降りてきた。そして、美しい女性を見かけて恋に落ちた。それが「木花開耶姫」だった。瓊瓊杵尊と木花開耶姫は結婚したが、木花開耶姫は一晩で子どもを身ごもった。瓊瓊杵尊は疑った。「ほんとうに俺の子なのか?」と。ショックを受けた木花開耶姫は産屋にこもった。そして、自らの潔白を証明するために産屋に火をつけた。「これでも無事に子どもが産まれたらあなたの子どもです」と。そして、無事に三人の子どもを出産した。
浅間大神、かぐや姫、木花開耶姫。いずれにせよ富士山の神さまは「女神さま」だと考えられてきた。そして、防火の神さま、安産の神さまとして信仰されてきた。現在も「うちのカミさんがね……」と、奥さんのことを「山の神」略して「カミさん」と呼ぶことがあるが、それは富士山をはじめとする山の神はどこも女性であることが多かったから。昔から怒ると怖い存在として重ね合わせていたのだろう。