さて、再び遊歩道を歩きながら聞いてほしい。

──中ノ茶屋から馬返しまで約3.5km──

富士山信仰の歴史を調べていく中で、ぼくたちが最も興味を持ったのが「身禄」という人物だ。実は、先に引用した新田次郎の「富士に死す」も身禄の人生を描いた小説である。ここでは、ぼくたちが聞いた話をまとめてみよう。

身禄は角行から数えて6代目の弟子であり、富士講ブームの火付け役といわれている。

当時、幕府をおさめていたのは徳川吉宗。「享保の改革」の真っ只中にあった。しかし、これは幕府の財政を再建する改革で、庶民をないがしろにした支配層のための政策に身禄には見えた。たとえば、当時の税金は年貢としてお米を集めていたわけだが、お米の価値が高ければ高いほど国の予算は豊かになる。だから幕府は意識的にお米の価値を上げていく。つまり、お米の元売りに出ししぶりをさせるのだ。お米が値上がりすると庶民は買えなくなって困る。そのときである。「享保の大飢饉」が起きたのだ。100万人が飢えで死んだといわれる大事件だが、身禄はこれを人災であると嘆いた。

身禄は「世直し」を考えはじめる。富士山信仰の開祖である角行の教えに「すべての生命は富士山から生まれた」というものがある。それならば、人の命を支える米も富士山から生まれたものに違いない。原点に立ち返り、角行の教えを「世の中がよくなる教え」にチューニングしていく。そのひとつが「信仰するばかりではなく勤勉に働きましょう」という教え。お坊さんなどは信仰のことしか考えていないと指摘。逆に、呉服屋の三越などは金儲けのことしか考えていないと非難した。そして、日々の生活の糧を自分で得ながら、その上で信仰するのが正しい姿だと説いたのだ。

また、身禄は「男女平等」についても強調した。男性も女性も同じ仕事をしているのに、どうして女性だけが富士山に登ってはいけないのか。「100日間の精進潔斎(肉食、飲酒、性交などを避けて身を清めること)をしてからでないと富士山に登ってはいけない」というルールも撤廃すべき。富士山の想いがあれば誰でも登ってよいのだ、というようなことを説いていった。

ただし、身禄が生きているうちにその教えが広まることはなかった。身禄が死ぬことを決意した理由には、幕府などの支配層に直訴しようとしたが門前払いを受けたこと、自分の教えがなかなか広まらないことに思い悩んでいたところがあったのかもしれない。とにかく、身禄は「神さまの使い」となって世直しを果たすために「即身成仏」を決意した。

1733年のことである。富士山の山頂で目的を果たそうとした身禄だが「迷惑だ」と断られた末に、七合五勺の烏帽子岩で厨子に入る。そして、絶食して死ぬまでの31日間、身禄の最後の言葉を聞いた弟子たちは、その教えを「三十一の巻」としてまとめる。彼らはのちに上吉田の御師になる人たちなのだが、江戸を中心に身禄の教えを布教してまわった。その教えが「富士に死す」というセンセーショナルな部分も加わって力を持った。いわば「アラブの春」のように共感は拡散した。そして「富士講」というグループを組んで身禄の教えを受け継いでいこう、みんなで富士山に登ろう、と考えるようになる。それが身禄の死から100年後には「江戸八百八町に八百八講」といわれるまで広まった。

なぜ、それほどまでに普及したのか。土台はもともとあったのだ。古くから富士山の神さまを各地で祀ったり、富士山に見立てた山を神聖視したり、富士山への憧れは誰もが持っていた。ただ、なかなか登ることができない状況にあった。そこに火をつけたのが身禄であり、身禄の教えをまとめた弟子たちであった。やがて富士講がブームになるにつれて、代表者だけでなく誰もが登れるような仕組みに変わっていき、富士山側も御師の家を増築したり、山小屋を増やしたりと次第に受け入れ態勢も整っていった。

現在も皆が口にする「一生に一回は富士山に登りたい」という言葉の裏には、身禄をはじめとする富士講の人たちのDNAが秘められている。と、言えるのではないだろうか。

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