転居を繰り返した旅するお寺、三千院が今に至るまで

「三千院」という名前は明治以降につけられたと聞くと、驚かれる方も多いだろう。三千院は西暦860年に小さな庵(小屋のようなもの)として創建され、「円融房(えんゆうぼう)」と呼ばれていたことが伝わっている。

円融房(三千院)は歴史上何度も転居を繰り返しており、移動した場所を辿っていくと、比叡山のふもと「坂本」、京都市内の「紫野(現在の船岡山)」などが挙がる。

転居にともない、円融房の名前も「梨本房」や「円徳院」、「加持井」や「梶井門跡」など幾度も変化し、おなじみの三千院となったのは、明治時代に入ってからのこと。

そのきっかけになったのは明治政府が行った「廃仏毀釈」だった。徳川幕府を倒し、新しく日本を治めることになった明治政府は、国の象徴として天皇陛下の影響力を高めようとした。そのために皇室の後ろ盾となる神道を保護し、お寺の財産や領地を押収して仏教の力を抑えたという。

結果、明治時代初頭にさまざまなお寺が弾圧され、数多くの経典・仏像が壊された。三千院も京都市内の領地を没収され、明治期まで使用していた「梶井門跡」という名前も使えなくなってしまったという。

梶井門跡(後の三千院)の僧侶は困ってしまった。馴染みのある名前は禁止されたが、お寺に新しく名前をつけなければいけない。どうしたものかと悩んだ末に僧侶たちは梶井門跡内の薬師堂に掛かっていた扁額(へんがく)に彫られた言葉から、「三千院」という名前をつけたという。

三千という言葉の由来は「一念三千(いちねんさんぜん)」という天台宗の教えで、「人の心の動きには、一瞬一瞬に三千の世界(=世界のすべて)が存在する」という意味を持つ。

噛み砕いて表現すると、「私たちは同じ世界に住んでいても、一人一人が世界を異なる形で認識している。そのため一人一人の心の中にはそれぞれに異なる世界が存在する。突き詰めると、世界を認識するのは各個人の心で、その心の動きを細分化して観察していくと、三千に分けることができる」ということになる。

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同じニュースに様々な解釈が生まれるのは、私たちが今までに経験してきたことが異なるからだ。私たちは経験した物事を解釈し、その解釈をもとに行動している。解釈を生む経験は五感によるインプットから生まれ、その五感は一人一人微妙に異なるものだ。これらの解釈や五感などの心の働きを細分化すると、三千に分けられると天台仏教は説いているのである。

この言葉をもちいて霊元天皇が「三千院」と額をつくり、その額を掲げたお堂は三千院と呼ばれていたそうだ。かくして三千院は大原に移り、現在の名前で呼ばれるようになったのだ。

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