門に掲げられた扁額。そこにある言葉は琉球王国を知るキーワードかもしれない。「守禮之邦=礼節を重んじる国」と書かれているが、これは単に「礼儀正しい」という意味ではない。

中国の臣下であった琉球には、国王が代替わりするたびに「冊封使」がやってきた。冊封使とは、新しい国王を任命する中国からの使者。多いときで500人にもなる大所帯だ。琉球は彼らが来るたびに礼を尽くして「おもてなし」をする必要があった。守礼門は、そんな冊封使を出迎える門だったのだ。

ここでいう「礼」とは、中国における規律のこと。守禮之邦という看板は「ちゃんと中国の教えを守っていますよ」という対外的なアピールでもあったのだ。そのため冊封使がいない期間は「守禮之邦」の扁額を外して「首里」と書かれた扁額を掲げていた時代もあった。が、次第に「礼節を重んじる国」であることに誇りを感じるようになったのだろう。守礼門の扁額は「守禮之邦」で通されることになった。

いずれにせよ、首里城のまわりに住んでいた士族や、ほかの町から来る庶民にとっては「ここから先は首里城です」と高らかに告げる門であったはず。身が引き締まる思いで、また憧れに満ちた目で眺めていたのではないだろうか。

沖縄戦で焼失した守礼門は、戦後いち早く再建された。それはなぜか。

琉球王国時代の首里城は庶民が入れるような場所ではなかった。が、守礼門までなら来ることができた。もしかすると庶民にとっては、守礼門こそが首里城を象徴する存在だったのかもしれない。

戦争で荒廃した跡地にはほとんど何も残されていなかったが、「守礼門を復元したい」という声は口々に広がり、政府の援助だけでなく、ひとりひとりの寄付金もあって守礼門が再建された。まだ戦後まもない1958年。人々に余裕があるとはいえない時代のことであった。

その心意気こそが守禮之邦。「礼節を重んじる」ということなのかもしれない。

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