「歓会」とは「歓迎します」という意味。それもそのはず。歓会門は中国からの冊封使や薩摩の役人など、首里城を訪れる「お客様専用」の入り口だった。ゆえに首里城で働いていた役人たちは城壁を遠回りした先にある「久慶門」から出入りする必要があったという。
守礼門は門というより装飾に近いので、歓会門が首里城内に入る最初の門となる。
門前には琉球の守り神「シーサー」が置かれている。が、それだけである。一国の城にしては無防備であると思われるかもしれない。それは、琉球が外交によって成長していくのにあわせて、首里城もまた迎賓館としての役割を強くしていったから。
琉球王国は450年続いた国家である。王国が安定していくにつれて戦に備える必要はなくなり、首里城はひと回りもふた回りも大きくなりながら、その姿を変えていったのだ。
──15世紀に誕生した琉球王国は、中国の臣下になるという冊封関係を結び、大国の影響力を利用して東アジア、東南アジア全域に船を走らせる貿易国家として栄えていた。
この時代について、もう少し詳しく見ていこう。
琉球王国が生まれる前は戦国時代。北山、中山、南山。島を3つに分けて勢力を争っていた。首里城が建てられたのもこのころ。中山の拠点として築かれた城だった。中国との本格的な貿易はこのころからはじまり、三山とも中国との関係を持った。が、中国に最も多くの船を通わせた中山が抜きん出た。その背景には那覇港を眼下に備えた首里城の立地の良さもあったことだろう。
やがて、中山の王・尚巴志が北山と南山を倒して本島を統一。琉球王国を立ち上げると、中国との関係はますます強くなる。冊封関係を結んで中国の臣下であることを認める代わりに、さまざまな文明の利器がもたらされ、東南アジア各国との貿易も盛んにおこなうことができた。まさに「大交易時代」である。その象徴が琉球国王を任命するために中国からやってくる冊封使であった。
大交易時代について詳しくは「旧那覇」のガイドも見てほしい。