この鐘にはこんな言葉が刻まれている。

「琉球は南海の景勝の地にある。朝鮮の優れた文化を集め、中国とは車輪と軸のような関係。日本とは唇と歯のような関係である。琉球は日本と中国の間にある夢の島。船をもって世界の架け橋となり、めずらしい宝物がいたるところに満ちあふれている」

東アジア、東南アジア全域に船を走らせていた琉球の姿が思い浮かぶようではないだろうか。しかし、この言葉は単に「貿易の繁栄」をうたったものではない。

冒頭に「南海の景勝の地」とあるように、これは日本のお坊さんが書いたもの。この文章には続きがあり、「国王が仏教を信仰したことで琉球が平和になった」というようなことが書かれている。さらに「この鐘を首里城の心臓部である『正殿』に設置した」との言葉もあり、王家と仏教には深い関わりがあったことが感じられる。

時代をさかのぼれば、遣唐使の船が漂流して流れ着くなど、琉球と日本との交流は古くからあった。遣唐使の船に乗っていた人の多くはお坊さんであったが、彼らは留学生のようなものであり、当時の仏教は学問の側面も持っていた。
ところで、琉球では仏教はあまり普及しなかったと思われているが、そうでもない。

琉球王国になる前、中山の王様が日本のお坊さんにはじめてお寺を与えて以来、仏教は日本のお坊さんによって広められてきた。その意味では、日本のお坊さんは外交官のような役割も果たしていたのかもしれない。琉球王国が誕生してからもたくさんのお寺が建てられたが、眼下に見える「円覚寺」もそのひとつ。これらの寺を大学として日本のお坊さんから数学や哲学、建築や美術などを学んできた部分もあったのだ。

「万国津梁の鐘」もそのような交流からもたらされたものだが、ほかにもある。たとえば、園比屋武御嶽石門の扁額で見られた「ひらがな」を覚えているだろうか。この島に「ひらがな」をもたらしたのも、日本のお坊さんだと言われている。

ちなみに、この万国津梁の鐘はレプリカである。が、本物は「沖縄県立博物館・美術館」で展示されている。沖縄戦の戦火にのまれて真っ黒に焼けており、いくつかの銃痕も残されている。その本当の姿も確かめてみてほしい。

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