これまでの石積みの門とは違い、門そのものが木造の建物になっている。全体の赤い色は漆塗りで、広福門は巨大な漆芸品であるともいえよう。

さて、広福門の中に「券売所」があるのがわかるだろうか。琉球王国時代はそこに「大与座」があった。出生届や死亡届などの戸籍管理をしていた役所である。なおかつ大与座は裁判所でもあった。では、当時はどんな事件があったのか。たとえば、「お墓を勝手に売り払ったら親族に訴えられた」というような財産争い。あるいは、「勝手に士族になりすましていた」というような詐欺事件。琉球には戸籍にかかわる事件が多かったようだ。

ほかにもトイレになっている場所にはお寺や神社を管理する「寺社座」が。情報案内所がある建物は士族の家系図を管理する「系図座」などが置かれていた。広福門を含めたこの空間は、たくさんの公務員が働く役所のようなエリアであったのだ。

大与座や寺社座は、どうして復元されなかったのか。実は、首里城を復元したチームは自らにこんなルールを課していた。

「当時の様子がわかるものについてのみ復元する」

資料によって建物の内部も外部もあきらかなものは完全に復元する。外部しか分からないものは外部のみを忠実に復元する。そして、外部すら分からないものはそもそも造らない。という思想である。

広福門に関しては、外観を伝える写真は残されていた。しかし、建物の内部を伝える資料がなかったのだ。

資料の発掘は現在も続けられている。

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